人間の認識の歴史①
- 2019.04.30
- 悟り(本当の自分)
よく今の人間の認識はデカルト認識方式と言われますね。
それはどうゆうことかと言うと、「精神」と「物質」は違う存在と定義したのが心身二元論と言われるものですね。
今では当たり前になっているけど、東洋思想ならば、「精神」と「物質」は一緒になる。
物質は肉体をも含んでいるので、東洋は肉体と精神はひとつながりになっている。
けど、西洋は心身二元論から今の現代医療なども生まれているので、2つに分けると言う考え方は科学の進歩に大いに貢献していることになる。
こう言った話をするとデカルトに対して肉体は心と切り離されているから、人間の肉体をロボットや、機械のように軽視しがちになるので、あまりいい印象を持たない人が多いと思う。
けど、デカルトの心身二元論の前には、ベーコンが打ち出した帰納法と言われる考え方が主流になっていて、
それは、経験値が全てが、経験から実験し、それを元に、真理を探っていこうと言う考え。
その経験論に「ちょっと待った」と声をかけたのがデカルトになるが、見方によっては、経験値が全てだ!と言う会社の堅物の上司に対して、経験が全てじゃないでしょ?と若者が反発、食らいついて意見を物申した、そんな状態。
人間は100歳まで生きられる、と言う経験から物事を見て全ての考えを整理しようとしていても、
科学技術の影響によって人間が200歳まで生きれるようになったら、その経験値が覆される。
なので、経験したものが絶対じゃないよ、と言う経験を疑った。
それがデカルト。
デカルトはなので、全てを疑った。
神から人間が作られた、って言うバイブルの教えも疑う。
この世の中に存在している全ての存在すらも疑う。
この肉体が存在していることも疑う。
あれも、これも、疑う、疑う、疑う、疑う。。。
うたが、うっ!
ん?
そういえば最終的に「疑っている私」と言うものは存在している。
これだけは確かだ。
「疑っている私」と言うものは間違いなく存在している。
だから「疑っている私」それが考えであり、理性である。
それを精神としよう。
だから「疑っている私」と言うものを精神として、それ以外は
身体の感覚も、全ては物質ということにしよう。
これがデカルトの心身二元論になります。
なので、精神と肉体を分けたのは、肉体を機械かロボットのように卑下するような考えではなく、元々は、
真理、実在を追求してきた思考法式なんですね。
そのデカルト認識方式、つまりは、精神というのは目では見えないもの。物質というのは目に見える存在と分けてしまったんですね。
その「精神」と「物質」は関係ない、分けられているという認識が強烈に今の現代人は思い込んでいる。
ってことをお伝えしたかったので、今日のブログを書いてみました。
これは何を意味するのかは次回のブログに書きたいと思います。
それでは、
人間の認識の歴史②につづく
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