私の人生は「人の顔色をうかがう」対人恐怖症の奴隷でした④

私の人生は「人の顔色をうかがう」対人恐怖症の奴隷でした④

私の人生は「人の顔色をうかがう」対人恐怖症の奴隷でした

今日は、最終回です。

前回は、私は愛されてないと思い込んでしまった、そうなった仕組みがある、と
お伝えしました。

なので、次には、

愛されてない私と言う演技をするのは、なぜなのか?という質問になりますね。

なぜ、私は、わざわざ「愛されてない私」を作ったんだろうか?という質問も出てきます。

これも人類共通なので、人間が自分を自己否定するような仕組みがあるのはなぜなのか?
という質問と同じになります。

つまりは、人間が自己否定することにメリットがある、ということになる。

では、では、この質問に答えられますか?

なぜ「自己否定」する機能を自分は作ったのか?

こんな質問です。

なので、
自己否定、他者否定をするのは辞めよう、

とかそういったアプローチをしていても、

結局は、人間がそもそも自己否定してしまう機能なので、

それは無駄な徒労に終わってしまう。

残念なことになる。

それで、

自己否定するのが人間の本来の機能だ、というのが腹に落ちると、
人から嫌われないようにしよう、とか、なくなる。

なんでかというと、人が自分を嫌う、その他者否定は、人間の備わっている機能だから。

その機能は、実は、単純である。

「違う」と思い込ませるだけ。それだけでいい。

人は「違う」と思ったら、本能的に、違いをなくし、共通、一緒にしたくなる。
それが戦争の本質。

違う意見だから、むかつく、私の意見と一緒になってよ!

でも無理だから、

じゃぁ、力ずくでも、私の意見と一緒になってもらうよ。

違うのは嫌だから。

というのが簡単に説明した戦争が起こる仕組み。

なので、人間は違いを楽しめることはできないようになっているとも言えますね。

もし、違いを楽しめているとするならば、無意識では恐怖、不安があり、それをひた隠して
楽しんでいるフリをしているだけ。

本当に心の底からは楽しんでない。

違い、と、違い、が出会った時には。

違うという認識は、恐怖、不安の根っこが必ず隠れている。

私の人生は「人の顔色をうかがう」奴隷でした。

それは、人の顔色をうかがうのは、相手に嫌われないようにしていただけだから。

相手に嫌われないように努力しても、

結局は、100%嫌われる、ということが分かったので、無駄な努力をしなくなった、まで。

100%嫌われるというイメージは、人は違うから、

人は恐怖、不安の根っこがある。

その恐怖、不安を出すか、出さないで建前でないフリをするのか、それだけになる。

人は、人との違いに無意識で恐怖、不安し、
そして、自分を、人、相手をジャッチする。

なので、人は、自己否定、他者否定をする存在だ、ということが仕組みで
分かったら、どうでもよくなる。

いい意味で。

人の顔色うかがって、嫌われないようにしようという努力は、叶わない無駄な夢物語になる。

苦いビターなコーヒーを、一生懸命、甘い味として味わおう、というのと一緒で、
コーヒーは苦い。

苦いもんは、苦い。

それを認めてしまうように、人間は機能上、自己否定、他者否定をする存在だ。

そのことが腹に落ちれば、人とストレスなく付き合えるようになる。

え?どうゆうことだ?

疑問に思うかもしれないけど、本当にそう。

この人間の自己否定、他者否定する機能がある、というのが理解できているということは、

人間とは何か?に答えられる状態なので、人間を超えた世界のイメージが明確にあることを
意味している。

そう、この境界線のある体という肉体が、自分だ、という今までのイメージではなく、

境界線がない、存在という固定されたものではなく、固定されない境界線がない世界が
本当の自分のアイデンティティーになっているのが分かる状態。

なので、人間が自己否定、他者否定してしまうのは、

そうだから、そう、と納得することで、まるで、スクリーンの映画の中で、喧嘩して争っている

映画俳優さんをみている、自分、という超客観的な私、を選択できることになる。

このイメージ持てるようになるのは、差が取れた、さとりをイメージできるようになること
が条件。

もし、悟りをイメージしたかったら、ぜひ、こちらから出会ってみてください。

http://www.nr-japan.co.jp/ntech/index.html

では、では、今回で、

私の人生は「人の顔色をうかがう」対人恐怖症の奴隷でしたシリーズを終了したいと
思います。

お付き合いくださりありがとうございました。