「正しく知ること」それを考えたことありますか?①

「正しく知ること」それを考えたことありますか?①

■正しく知るとは?

「正しく知ること」を誰も教えてくれないのは何故でしょう?

それを今日は考えたいな、と思います。

例えば、

正しさとは、「人に愛を与えること」と言ってきた場合は、

「愛って何ですか?」と質問してみたとする。

すると、「自分のことだけじゃなくて、人に優しくすること」と。

言ってきたとします。

そして、次に「人に優しくするってどうゆうことですか?」と

質問すると・・・?

「人が喜ぶことをする」と返ってきたとします。

その後に、すかさず「人が喜ぶポイントは、みんなバラバラなのに、

どうやって人を喜ばすことができますか?」

という質問をしたとします。

すると、自分がされて喜ぶことは、自分以外の全ての人間が喜ぶはずだ!という

「部分情報」の考えが浮き彫りになると思います。

自分がされて嬉しいことは、他人も嬉しいはずだ、という

自分が生きてきた経験値、取得した部分情報を

正しさというものを算出する。

それは、自分が喜ぶことは、他人も喜ぶということが

大雑把に一致するだけであって、細かく、明確にイメージを合わせていくと、

自分が喜ぶポイントと、他人が喜ぶポイントはまったく違うんです。

そう「違う」んです。

なので、正しさというのは人によって違うので、

何をどう判断していいのか?

よく分からないのが人間の現在地ではないでしょうか。

■正しさ、間違いないという正しさ

あ、そうそう。

よく正しさも、間違いもないよね、という人がいますが、

「正しさ」は選択、行動になるので、正しさはないけど行動するために

必ず選択するのが人生になります。

なので、

なぜ?そもそも正しさが必要なのかというと、人は選択するからです。

選択する基準に「正しさ」を置いて判断するので、

ある意味正しさとは、自分の判断基準の

物差しという言い方もできますね。

なので、正しい、間違いもないと主張することは、

何も選択しない、という人生を放棄していることになります。

「正しい、間違い」もない、という選択をしている「正しさ」があるなら、それは人生を主体的に生きてますね。

■哲学の巨匠も言っているし

人間は正しさ、間違いはない、という議論に終止符を打つ意味で、

現代の哲学を創り出したと言われているカントを紹介しましょう。

彼も純正理性批判の中で、人間は何を知ることが出来るのか?

人間には正しさはない。

正しいと言える、その基準、そのベースは一体どこから来ているのか?

という問いを投げて、

人間が正しく知ることは出来ないと訴えかけてます。

そうですよね。

人を殺しあう戦国時代や、戦時中に生きていたら、「人に優しくする」という、その判断は「正しくない」→間違っていると判断されます。

今の呑発戦争するという平和な環境から、その固定からみたときに、

戦争中の選択している「正しさ」を語ることは難しいし、ただの否定になってしまいます。

では、ちょっと正しさ、間違い、正しさ、選択、とごっちゃになってきた

と思うので、もうちょっと整理して、次回、正しさについて、まとめて

語りたいと思います。

それでは、また次回