正しく知ることを考えたことありますかー?②

正しく知ることを考えたことありますかー?②

■正しさを知るために(再び)

正しいと判断する考えは、「知識」から生まれています。

その知識の根幹にあるものは、心理学、物理学、哲学、人文学、政治学、経済学
などなど、今まで人類が貯めてきた、蓄積してきた

「叡智」になる。

例えば、前回お伝えした、

自分がされて嬉しいことは他人にもすべきだ、という教えは、孔子も言っています。
『自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない。』と。

それがまとめて論語というものになり、それが現代では、倫理道徳とされています。

その論理、道徳から派生して、ルール、規律、こうあるべきだ、という正しさが生まれます。

そういった倫理道徳は、

知識(知る)と方法(行動)の繰り返しのパターンであり、統計学であり、

過去に人間が「これいいね!」と言われていることを厳選して

今の規律、ルール、常識、これいいね!という正しさが生まれている。

けど、けど、人間って「これいいね!」というのは何をもっていいのか?

というのが明確に定義できてないように思う。

人間というか人類に共通しているのが幸せになりたい、という願望だと思う。

では、その幸せとはどうゆうものなのか?という定義はバラバラじゃん、という

その前に・・・・

人間、人類は幸せになっている?と 客観的に問いただしてみる必要が

あると思う。

薄っぺらい、ペラペラな牛乳を電子レンジでチンっ!したときに表面に出来る

膜のようなプラス思考じゃなく、

「人間って幸せになっていると思う?」

この質問に対して、どうですか?

■実は人間が幸せになる知識は存在しなかった?

「人間って幸せになっているのか?」

この問い。

変なプラス思考じゃなく、超リアルに現実的に考えると、

No!っていう人が多いような気がする。

人間って幸せになるために、いろんなことを研究してきたけど、その中で、

一番力を入れているのは、知識なんじゃないかな、と。

過去の人達が「こうすれば幸せになる」という幸せ成功方程式を

作成しようと必死こいて、

「知識」そして、その知識に伴う「実践」をひたすら繰り返してきた。

孔子が言っている

『自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない。』という教え。

これは厳密に言うと、自分がされて嫌なことは、他人も嫌なこと。

という思い込みになる。

自分がされて嫌事も、他人にすることで他人は喜ぶことだってある。

自分が怒鳴られ、ばかやろうーっ!と言われたら嫌だけど、

人によっては、それが真剣に向き合ってくれるから嬉しい♪って人もいる。

なので、自分がされて嫌なことは、人も嫌なはずだ、というのは

思い込みであって、100%絶対そうではない。

なので、昔の人達がたくさん「知識」→「実践」によって繰り返し、繰り返し

取り組んできた幸せ方程式は誰にでも使えるわけじゃない。

けど、統計学なので、うまくいく可能性がちょっと高いだけであって、

それをありがたがり、その教えに従い、その教えが絶対に正しいと思われがち。

いやいや、統計学だから。

思想、哲学、心理学で言っている内容は、全部。

統計学だから。

■統計学の不確定さ

幸せになる方程式は、倫理、道徳に集約されて、それが今では

人に幸せになる方法と歌っている。

じゃぁ、その倫理、道徳によって、世界で戦争がなくなっているのか?

と問いただせば、答えはNo!になる。

人に優しく、人に愛を与える人が増えれ世界平和になる。

という人がいるが、

どうやったら人に優しくなれるのか?

どうしたら、人に愛を与えるれるようになるのか?

を答える人は少ない。

そもそも、人に愛を与えれない根本原因をほとんどの人が知らないから。

知らないというより、無意識に、無理だ!それを変えるが、と諦めている。

その諦め。

その諦めは、人間のエゴはどうしようもない、と。

その諦めがある。

人間のエゴ、欲求はどうすることも出来ない。

と、諦めてしまっている。

 

正しいことをしなさい、人に優しく、愛を与えなさい、という言葉は
分かっているけど、それが出来ないのは、

自分の怠慢だったり、自分に対する甘えだったりするのが原因だ、と

いう人がいるかもしれない。

所がドッコイ。そうじゃない。

個人の気合、精神論、個人の能力不足とか、じゃない。

■倫理・道徳の限界を叫ぼう

いろんな本を読んだり、セミナー、交流会などに参加し、

自分を高めていき、人に愛を与えられる素晴らしい人間になろうと努力する。

それが倫理、道徳というプラス思考と言われているイメージを蓄積、反復
していくことが幸せになると思い込んできた。

それが人類史がある。

それが、いまだにその方法が「良し!」とされて、突き進んでいる節がある。

人に感謝をすると、自分が感謝される

という状況があるけど、人に感謝する、その感謝のイメージもバラバラ。

そのバラバラなイメージを、書物にして「これをやるとよい」と書いても、

感謝するというイメージも、感謝されるイメージもバラバラであり、
ありがとう♪ってニコっと笑うのが感謝することで「良し」とされる観点もいれば、

ありがとう♪ってニコって笑うのは、建前であって本当の感謝は、
何も言わずに、意思疎通が取れている状態だよ、という意見もある。

それぞれ感謝という単語1つでも、人間のそれぞれの個別のフィルターがあるので、それを共有化することは、本当はできない。

共有していると思い込んでいるだけで、細かくイメージ合わせをすると
全然バラバラになる。

なぜなら、個々の生まれ育った環境、入った情報は、まったく1ミリもズレずに
一緒じゃないから。

なので、実は、倫理道徳とは、人に正確にイメージを伝えることができる教育体系化出来てないと意味がない世界だけど、

実は、共有化されてないのに、共有化されていると思い込んでしまっている。

という個とは、今までの素晴らしいね、この人間の生き方は。という

ある意味、倫理道徳は、共有がされてないことであり、

もちろん、共有されてないので、教育という形では本来ならば成り立ちえないことになる。

人間は単語1つとっても、イメージがバラバラなので、人と人とは

共有共感できていると思い込んでいると思うが、

実は、まったく共有、共感できてない。

それが人間だ。

だから、結論としては、この世界に正しさはない。

なぜならば、自分の思い込みの中の正しさがあったとしても、

共有できないから

「正しさ」じゃなくて、他人からみたらそれは、単なる「違い」になり、

他人からみたら、それが「間違い」に変化してしまう。

だから、お互いの正しさと正しさが、ぶつかって、戦争が起きる人類史に

終止符が打てない。

ただしさ、間違い、を超えた

共有できるベース、共有できるイメージ。

あれば、それは、世界発の正しさになりえる。