ジーニマムとは?②(※暴力、財力に支配される上下関係のZero化)

ジーニマムとは?②(※暴力、財力に支配される上下関係のZero化)

前回の続き。

人間が孤独になり、その孤独になる原因を発見したNohJesu氏。

その孤独をクリア、解決できることをジーニマムというセミナーを通して得た気づきと共に、

全体像をお伝えしたいと思う。

突然ですが、人間は自己否定する存在だ。

こう聞かれたら、あなたは、なんて反論?もしくは何を感じ、どんな返答をするだろうか。

ほとんどの人間は、自己否定、もしくは、他者否定と言う言葉には、あまりいいイメージを

持ってないように思う。

できれば、自分も他人も肯定感を持って出会いたいと願う人が多いと思う。

けど、ほとんどの人が、人間が自己否定をなぜするのか?

という問いはせずに、自己肯定ばかり心がけるプラス思考信者が結構、多いような気がする。

■人間とねこ

自己否定とつながるので、動物の例をあげてみたいけど、猫ちゃん、ワンちゃんは、

自我をもってない、という。

自我ってちょっと難しいイメージ持つ人がいるかもしれないので、言い方を簡単にすると、

「私」って自分を認識することを言う。

この自我っていうのは、そこから派生するものは、「恥ずかしさ」でもある。

キリスト教では、自我からくる「恥ずかしさ」というものは、アダムが、葉っぱで股間を隠す行為から、と

解析しているとか、してない、とか。

頭、手、足、という自分って思える認識が、動物とは違う、とも言われているが

なぜ、自我が生まれたのか?という質問する人もあまりいない。

(文章書いていて、質問の質が現代人は、おかしなことになっているな、と感じた。By 余談)

■なぜ自我が生まれたのか?

ここまで文章を書いていて、いろんなイメージで受け取る人がいると思うが、

Noh Jesu氏による、ジーニマムセミナーで学び、気づいたことを書いているので

何か気づきがあった場合は、Noh Jesu氏のメッセージがちょっとでも入ったと思い込む

ことにしよう。

NohJesu氏は、かく語る。

「自我があるのは、自分を否定するため」と。

なんだそりゃー!

自分という自我を認識できる人間の特徴があるけど、それが、自己否定するためって?

ここのポイントが一番ショックを受けたので、ちょっとオーバーリアクションしてみる。

自己否定は悪いもの、とか、自己否定もただの人間の思い込み、とか、いろんなことは言われているけど、

「自己否定するために、自我を持った人間」と定義したのは、

自分が知っている限り初めてのイメージでかなりビックリし、軽くプチショックが起きた。

その後、よくよく考えたら、人間じゃない、猫ちゃん、ワンちゃんが、

自己否定しているのは見たことないな、とふと思った。

(もし、自己否定している猫ちゃんがいたら、進化系猫ちゃんだと思う。)

どちらかというと、猫ちゃん、ワンちゃんは、自我がないので、恥ずかしいという羞恥心がなく、

人間とは違って、わがままに?好きなことを好きなタイミングで行動しているように思う。

それと自己否定という言葉のイメージの究極系は、死だと思うが、

人間だけが唯一、自分に死を与える、殺せる行為である自殺ができる。

つまりは、自分で自分という存在を殺せるということは、どういうことなのか?

この質問が人間を知る1つのキーワードにもなると思った。

■特攻隊の勘違い

Noh Jesu氏の言葉の1つ1つが深すぎて、1つの単語から、イメージがどんどん膨れ上がる。

それはまるで、松茸の匂いだけで、ご飯が3杯いけちゃう!みたいなイメージに近い。

今回は、「人間が自我を持ったのは、自己否定するため」というキーワードによって

山林から松茸がムクムクと次から次へと湧いて出てくるような感覚に陥っている。

では、続きを。

世の中の人たちは、日本が戦時中の特攻隊のことを大きく勘違いしている、と思った。

特攻隊といえば、みずから命を賭して、日本のために零戦でアメリカの空母に突っ込んでいった無謀な

作戦と捉える人も多いと思う。

さらに、いろんな解析があるが、次の世代の日本人のために、プライド、誇りをなくさずに、戦争に負けても、日本人の魂は守る、という解析もある。

解析は正しさがなく自由だけど、自分の中でイメージが舞い降りたのが、

特攻隊とは、命よりも大事なもののために生きる姿勢、態度だった。

人間は生きる、死ぬという因果(カルマ)につかまれて、恐怖、不安を感じる存在だとは思うけど、

自己否定の究極系である「死」という世界のイメージが広がり、特攻隊を決行する日本のエネルギーには、

生きる、死ぬよりも深い、意思ともいう心の動きを悟り知っていると感じた。

こんな解析は、死ぬのが怖いから生きる、っていう生き方を選択している人たちには、ただの音、文字にしかキャッチすることはできず、なんのこっちゃ、分からないと思う。

(これは、07%発動しているセンスがキャッチできるかの世界。このパーセンテージについては

機会があれば、Noh Jesu氏に直接聞いてみてください。)

この文章をどのくらいの人たちが読んでいるか分からないけど、

人類が700万年、宇宙が始まって138億年という悠久の長い長い時代、歴史の因果(カルマ)から

するりと脱出するイメージを感覚レベルで日本という国はもっていた、ということになる。

さらに、Noh Jesu氏はかく語る。

「人間の体があると思い込むから、孤独になる。」

「他人、時代のせいにしちゃダメ。」と。

つまりは、人間が孤独になる苦しみの根本原因は、自我があるから、と

そして、Noh Jesuはかく語る。

「この体が自分だ、という人間そのものを否定するんだ」と。

人間である自分を肯定するんじゃなく、全否定する。

その言葉を聞き、これが自殺ができる人間にとっての唯一の自由選択でもあるな、とも感じた。

(決して、自殺を進めているわけじゃなく、生きながら、死ぬということを伝えたい。)

■自己否定の正体とは?

自分を殺すのが自己否定って聞くと、ナイフで自分を指して死ぬとか

そんなイメージがくるかもしれないけど、そうじゃない。

認識を殺すことが、死のイメージになる。

さらに・・・

人間という存在が死んじゃうと、人間がいなくなるから、次は地球が残り、地球自体が自分になる。

これは、地球の上にちょこんと乗っているのが、人間でもあるので地球が私、と思っても

なんら問題ない。

問題ないどころか、地球と自分はつながっているので、地球は私、っていう認識でいて欲しい。

人間の目でみる情報だと、地球、私、と境界線を作り、分離して認識しちゃうけど、

人間の目じゃなく、電子顕微鏡のメガネがあったならば、地球と私、という区別がつかず、

粒々の素粒子になる。

人間の目じゃなく、素粒子をみる目だとするならば、地球と、私は、一緒になってしまう。

目で見る情報で分離して、違う存在と認識して生活することが、いかに、部分情報であって、

絶対的な正しさじゃない。

ちなみに、地球上の空気がなくなったら、一瞬で死んじゃうのに、地球環境問題で植物がなくなり、酸素が減り、

空気を吸うのが辛くなるなんてことが未来に起きるかもしれないと言われている。

だから、人類は運命共同体のはずなのに、いまだに自分の国だけのメリットを考えている人がいるから、

本当に馬鹿。大馬鹿すぎる。

自分の目玉を指を突っ込んで、目潰ししているのと一緒。

話をもとに戻すと、人間を否定するというのは、人間って自我を認識してしまう

認識を否定することになる。

否定というは、そこじゃないよ、こっちだよ、と変化を促すバージョンUPの意味合いもあるので、

人間の認識じゃなくて、地球からみた認識になってね、という変化の意思にもなる。

■宇宙論

宇宙を研究している物理学者たちは、結局のところ、自分が何者なのか知りたいだけだ。

そう、自分が何者なのか知らないから、宇宙を研究している。

さっきの話につながるけど、地球は自分になった。

人間という認識を否定、殺すことによって。

じゃぁ、同じように、地球の認識を否定し、太陽系になる。同じようにフラクタルさせると、太陽系から銀河系、銀河系から宇宙空間と。

どんどん別の認識に広がっていくことになるが、それが否定し続けていくプロセスになる。

最終的には、オリジナルマインド、神?サムシンググレート、大いなる意思、空、などなど。

言葉はなんでもいいけど、1つだけがある世界に到達する。

それをNohJesu氏は、「源泉動き」という言葉で定義している。

ということで。

ジーニマムのセミナーの内容を具体的にここに書くことは

膨大な情報量になるし、自分のフィルターを通してしまうので誤解を招くことにもなるので、

この辺にしておくが、

最後に自分が強烈にイメージに残った内容をシェアしたい。

それは、

タイトルにもあるけど、

今までの700万年間、人類が、暴力、財力、そして、今では倫理道徳により、

上下関係が生まれてしまった人間史と呼ばれるものは、たった一言で表現するならば、

「支配する側と、支配される側」の歴史になる。

その支配する側と支配される側の境界性を0化し、日本から新しい文化、文明を作っていく。

それが、美学という言葉に集約されて、人間が生きてることが楽しくてしょうがない。

人間が人と出会うのが楽しくてしょうがない。

人間が、生まれたことに最大限に感謝でき、クリエイティブしかない。

それを明確に実現できる社会を作れるイメージをジーニマムのセミナーで得られたと思う。

ここで勘違いしやすいのが、暴力、財力、論理道徳、などでこの世界を秩序化しようとする

既得権力とも呼ばれている人たちも、「孤独、不安、恐怖」から脱出できない状況なので、

彼らをも境界線をなくすジーニマムのような教育コンテンツを提供していきたい。

この時代に、このタイミングで生まれた人間は、どんな人だったとしても、仲間でしかない。

ということで今回は、ジーニマムのセミナーに参加してみて

気づき、想いを書いてみた。