人間の認識の歴史⑥
- 2019.05.02
- 悟り(本当の自分)
前回、この世界は条件、状況が変わるので、真実はない、ということを
お伝えしました。
じゃぁ、真実がない世界で、どう人間はこの世界を認識すればいいのか?ということを今日は、お伝えしますね。
よく科学の話であるのが、アインシュタインと、コペンハーゲン説を唱えているニール・ボーアの会話。
ボーア「ミクロの世界では、人間が観測する前は、どこにいるか分からない」
アインシュタイン「ミクロの世界と言えども、人間が見ようが、見まいが、あるべきところにある」
という相反する意見。
実は、この二人は同じことを言っていて、相反することは言ってない。
()カッコをつけて、付け加えることで同じだ、ということを確かめてもらいたい。
ボーア「ミクロの世界では、人間が観測する前(自然)は、どこにいるか(人間にとっては)分からない」
アインシュタイン「ミクロの世界と言えども、人間が見ようが、見まいが、(人間が観測できないだけで)あるべきところにある」
というように、【人間にとっては】という言葉が大事であり、二人とも人間の観測行為が絶対に正しいという固定概念から抜けきってない。
人間が観測する前は、そこにあるし、人間が観測したら、人間の脳のフィルターを通した脳の映像スクリーンが、ばん、と立ち上がる。
ただ、それだけ。
アインシュタインは、自然(神)というものを人間の観測では捉えることができないのに、人間の観測行為で捉えようとしているし、
ボーアは、人間が観測する前のことは分からないという、人間の観測行為が不完全である、ということを認めていない。
二人の天才が語る内容について、そこのポイントをつくことができるのも、
自分がnTechを使って、全体像が俯瞰してみえるからに、他ならない。
今回は、自慢話しみたいになってしまったが。^^
次回は、では、どうやって全体像をみる認識になれるのか?
それを次回はお伝えします。
人間の認識の歴史⑦につづく。
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