「どーせ私は嫌われ裏切られる」は幻だった?

「どーせ私は嫌われ裏切られる」は幻だった?

自分で自分をどう思っているのか?

自分の場合は「どーせ嫌われて裏切られる私」と自分で思い込んでいました。

その自分が作り上げてきた思い込みによって人生がすべて決定されてしまう。

つまりは、自分の思い込みの中で生きることになるので、誰がどうとか、なにがあれした、とか、一切関係ない。

宮沢謙治も「思い込みの中で生き、思い込みの中で死んでいく」と言っていたような、

言ってないような ・・・。

これをもう少し噛み砕いて言うならば、「自分で自分をこうだ!」と思い込む世界から始まり、そこから関係性が生まれ、その関係性から、自分の行動、アクションが決定されます。

このように。↓

1、自分で自分をどう思うのか?

2、それによって関係性が決まる

3、関係性によってどんな情報が入るのか決まる

4、どんな情報が入るのかによって、行動が決まる

5、行動によって、人生が決定される

例えば怒鳴られた、という画面に出会った時に、ムカつく、否定された、と思い込む人もいれば、自分と真剣に向き合ってくれた、と認識する人もいる。

だから、現象は一切関係なく、自分で勝手に思い込むことで、この世界を創っていることになる。

言い方を変えると、あなたは神様のポジションでもある、と。

その神様のポジションを知ることがとても重要で、その神様のポジションの自分が、自分をどう思っているのか?を具体的に知ると、本当に自分がこの世界を作り上げていることが自覚できる。

このブログのタイトルの神様を掌の上に乗せた男という言葉も、あなたは神様のような

世界を創りだすクリエイティブな存在だよ、というメッセージを発信している背景もある。

ということで、今日は、自分がどう自分を思い込んでいたのか?その癖、パターンを

暴露しようと思う。

自分の自分に対する思い込みによって、世界を創っている神様である、ということを確認できると思うので。

私は絶対に人から嫌われ、裏切られる

自分が自分をどう思い込んでいたのか?それを知ることは超大事だと思う。

というか、これを知らないと、自分の人生の「かじ取り」が出来ないと思う。

自分の場合は、「どーせ私は嫌われるんだ」と思い込んで、ずっと生きてきた。

詳しくは分からないけど小さい時に、母親が「しかめっ面」をし、渋い顔をしたのが強烈な恐怖、不安として残っているみたい。

だから母親が笑顔になってくれないと、「嫌われた!」という恐怖、不安が発動するので

どうすれば笑われて、嫌われないようになるんだろう?ということを考えて

その結果、自分を自虐的に見せることで笑いをとれる、必勝パターンを発見してしまった。

それは、どうゆうことかというと、わざとミスしたり、失敗したり、ドジをしたりする。

すると、母親は心配してくれて、そして「クスっ」と笑ってくれる。

「バカだね~」とか言いながら自分に注目をしてくれて愛されている感覚があった。

だから、自分はわざと、バカ、ドジ、間抜けな行動をするようになった。

バカな自分、間抜けな自分、おっちょこちょいな自分。

嫌われないための予防線をはることが、バカになる、だった。

自分の最大限の武器が通用しなくなった?

自分が小さいころに発見した愛される武器が「バカな自分を演じる」ことだった。

けれども、大人になることでバカなことをすると、怒られる、という現象に出会うようになった。

そりゃぁ、そーだ。

資本主義社会は、効率主義で、「手際がいい」「要領がいい」「時間がかからずスピーディー」それがすべての社会だから。

ミス、失敗、ドジ、間抜けは、いらない社会。

だから、自分が今まで嫌われずに愛されるという「バカな自分」という武器がまったく通用しなくなってしまった。

そこで今度は、怒られないように、バカにならない、完璧主義を目指そうとする。

でも、小さいころの武器は無意識でまだ錆びずに刀を振り続ける。

バカな自分を演じることで嫌われず、愛される、と言う武器を。

無意識は自分はバカになりたい、意識化では、自分はバカになりたくなく完璧になりたい。

こんなまるで車のブレーキとアクセルを同時に踏むという無駄なエネルギーが消費されるような自分になってしまった。

自分がどんどん消えていく・・・

無意識に自分はバカになる、意識化ではバカになりたくない。

意識化では、完璧にやらないと、怒られるという恐怖、不安で、いつもビクビクしていた。

何しても失敗して怒られる、という恐怖、不安で、何をどうしていいのかも分からなくなっていた。

その結果、自分の中に正しさとは、「効率よくやる」ということに定義されていった。

正しいことをしないと怒られるという恐怖で、「常に正しいことをしているのか?」してないのか?それを常に自分に問いただす癖もついた。

そして、無意識にあるバカな自分は効率よく出来ない、だってバカだから。そんなバカな自分は正しいことを判断できない自分なんだ、と自信を無くしていった。

そこから何を発言しても、どんな行動をしても、それは間違っている、と思い込むようになった。

だから自分の存在そのものが間違っている。

存在しちゃいけない存在。

自分で自分を丸ごと全否定するから、それが緊張という攻撃に変わり、強烈な肩こり、頭痛で表され、吐き気、下痢、立ちくらみ、歩くのも辛い状況になる。

1秒でも早く死にたかった

自分が間違っている存在で、何を考えても、何を行動しても間違っている。

そんな状況になってしまったので、毎日が自分は間違ったことをしている、と思うようになり、行きつく答えが、

生まれたことが間違っていた、になる。

そんな恐怖、不安から小学校3年生の頃には、頭が白髪だらけになってしまった。

そして、恐怖、不安で肩こり、頭痛、下痢、嘔吐、立ちくらみを耐え抜いて、

肉体をキープ、維持することだけで精いっぱいの日々を過ごすようになった。

だから、もちろん、浮かんでくる考えは、1秒でも早く死にたい、だった。

自己否定からくる恐怖、不安を解決するため「だけ」の人生

だからいつもこんなことを考えていた。「1秒でも早く死にたい」

学生時代は、こんな状況だったから、きっと「お前暗いね」と言われると思い、誰とも友達を作らずに、お昼は誰もいない公園の隅っこでパンを買って食べてました。

生きることに疲れて、いつ死のうか?ばかり考えて、学生だけど、学校も行かず

心とは?という本を読み漁り、それでも心が分からないから、宇宙、自己啓発、スピリチュアルの本などを読んでました。

電車の路線上に(きっと電車に飛び込んで自殺をしようとしていたのかもしれない)無気力でどこを歩いているのかも分からず、気づけば5時間ブラブラ歩いてました。

その時に、宗教の勧誘があり、何でもいいから救われたいと思い入信し、宗教を熱心に取り組むようになりました。

どーせ嫌われ、裏切られるん存在だ、自分は。

宗教に入って、いろいろとあり、人間関係で「裏切られた!」という事件があり、宗教を辞めました。

その後に何とか夢、希望を語れる人が現れて、その人から100万円以上する自己啓発の教材を買って、自分を本当に変化しようと決断しました。

けど、その人は自分がお金を支払った、その直後に、逃げてしまい、連絡もつかない状況になってしまう。

人間不信になったけど、まだ「何かを」諦めきれずに、

本当に社会をよくするためのシステムを変えていくネットワークビジネスに出会い、その感動で友人たちも巻き込み、150万近くの投資をして頑張ろうと思った、けど・・・。

その社長もどこかに逃げてしまい、会社が機能しなくなった。

誘った自分の責任もあり、友人から恨まれて、関係性が立たれてしまう。

あぁ、人間って、世界平和だ、あなたの人生を変えるために一緒にやっていこう、社会を変えよう、と立派なことを言っても、しょせん、裏切る、嘘をつく存在だ、と思うようになる。

人は100%必ず裏切る存在。

だから、誰も信じないし、誰の力も借りないし、自分1人ですべてやる。

という自分が強固に作られてしまった。

スピ系にはまる。。。

極度の人間不信と、極度の緊張で、楽しい、という感情も分からなくなり

いつ死んで楽になれるんだろう?ばかり考えていた。

そんな中、ヨガの先生に出会い、自分の体と心を癒してくれるようになっていった。

あぁ、救われた・・・・。

ヨガに通い、自分の無意識にある自分の可能性を引き出してくれるような感じがして、

もうずっとその人についていこう、と思った。

その人の紹介で、インドに悟った人がいるから、ということでインドに約1か月行くことにした。

つまりは、悟りセミナーってやつです。

インドに行き、悟りのイメージ、感覚をもらって日本に帰ってきたら、それはもう

感動、感動、感動の世界が待ち受けていた。

自分が見る世界が、美しくなってしまった。

車の排気ガスや、ごみ収集所で出されている生ごみ、それらが美しくて、美しくて

涙が出るほど、感動してしまう。

母親の顔も後光が差して、まぶしくて見れなくなってしまったり、コンクリートブロックに

座り、そのひやりとした、おしりの感覚が出会った!という幸せMAX感を感じ、

ちょっと今思うと、かなり変態チックに見えてしまうぐらい、歓喜を感じれる自分になってしまった。

紙袋のしわをみても、そのしわが、面白くて、おかしくて、1時間ゲラゲラと笑い転げしまう始末。

そんな状態が、1か月続き、何が起きたのか?

実は、1か月後には、そんな歓喜、感動の世界がピタ。と止まってしまった。

あれ?あの法悦的な、歓喜の感覚が来ない???

おかしい?

おかしいから、また瞑想をし、呼吸を整え、ずっと待つ。

ひたすら、待つ、待つ、待つ。

待てども、待てども、その感覚はやってこない。

やばい、どうしよう?

そんな日々が1か月続き、いつもの恐怖、不安が蘇ってくる。

結局、感覚の悟りって一時的なもので、永続性がないんだ、と悟りしった。

感覚の悟りの恐ろしさ

感覚の悟りの恐ろしさは、自分で自分をコントロールできないこと

自分が尊敬していたヨガの先生は、いつの間にか、アマテラスのお告げということで

勝手に、自分とは関係ないことをしゃべり出すようになる。

人間には到底理解できないことをしゃべり出して、過去世、未来、などを言い当ててしまう。

その人のもとにたくさんの人が集まり、奇跡、変化が起き始める。

いつの間にか、宗教のような形?組織みたいのが作られてる?

自分も自分の体の痛い箇所や、思い当たる気持ちを言い当てられた、ということもあり、

その人のことを信じるようになった。

人間は信じることは出来ないけど、人間を超えた存在は信じれる、と。

そしていつしか、その人からこんなことを言われるようになる。

「あなたは浄化作用が必要だから、母親に生まれて来なければ良かった、と伝えなさい」と。

なたは浄化作用が必要なので、「母親に生まれてこなければ良かった。」と

伝え、反発しないさい、と。

母親にそんなことを言うのは無理!と言ったけど、それが難しいから

チャレンジする必要がある、とも言われた。

だから、チャレンジする必要があると説得されて、かなり緊張したけど、母親に言うことにした。

「自分なんて生まれて来なければ良かったよ。」と。

初めて母親が泣いた

母にそのことを伝えた所、その時には母は何も言わず無言だった。

無言だったけど、しばらく姿を見ないな、と思ったら、

部屋に閉じこもって、泣いていた。

その姿を見たときに、衝撃過ぎて、時間が止まって、何をどう考えていいか分からなくなってしまった。。

母親の泣いている姿をみて、もう自分は2度と、マイナス感情は出さないようにしよう、絶対に、と決断をした。

そうして母親にこんな酷いことを言わせた人に、どうゆうことだ?と文句を言いに行こうとしたけど、その人はいない。

ん?どうしたんだろう?

その人は、頭がおかしくなって精神病院に入院してしまっていた。

あぁ、神様も、人間も、そして人間を超えた「何か?」ですらも、裏切る。

だから、自分はもう誰も信用しないし、誰にも助けを求めない、誰にも、誰にも、絶対に誰にも。

「大」変化ストーリー

そんな強烈な人間不信の塊のような自分。

生きること、もう呼吸するだけで、自分が嫌になる。

文章がだいぶ長くなってしまったので、割愛するけど、

今までは自分に何かを付け加えることばかりしてきたけど、

ある人、ある情報に出会って、

消す、なくす、引いていく、というイメージをもらった。

全ては、ない、思い込み、宇宙も自分の存在も、実はない、と。

すべてはない、無、空。

そこのポジションからみると、存在の仕組みが明確に見えてくる。

つまりは、自分がどーせ嫌われて、裏切られるんだ、と思い込むようになる仕組みが。

今までたくさんの裏切りに会って、人間不信になってきた人生だったけど、

それは自分で作り出していることが分かった。

自分自身の人生を、自分という主人公が、

「どーせ裏切られて、嫌われる」というタイトルの映画を上映していることが。

そんな自分を演じているので、わざと宗教に入り、そして裏切られるという事件を自分で自ら探して、そして「あぁ、やっぱり人は裏切るんだ。」と確認作業をする。

インドの感覚の悟りも、持続性がないということが分かっていて、わざと、悟りの感覚がずっと得られないと挫折するようになっていたし、

ネットワークも社長が逃げて裏切る、という所をわざと選び、その感情を蓄積していることも理解できた。

そう、自分のミッション、使命が分かった瞬間。

(使命と、氏名が同じ読み方っていうのも不思議だね。)

その使命というのは、裏切る、裏切れる、その恐怖、不安を感じて苦しみ、涙し、絶望することで、

本当に裏切らない関係性、本当につながり、不安、恐怖のない世界を創るための

エネルギー生成のためだったんだ、と。

言い方を変えれば、

本当の愛を知るために、わざと「どーせ嫌われる自分」を演じている。

苦しみ、悲しみ、悩み、絶望は、パワーになる。

人間からみたら、遠ざけたい無用な存在だと思いやすいけど、現実を作るためには

必ず必要になるパワー、エネルギーになる。

悲しみが深いほど、憎しみが深いほど、痛みが深いほど、絶望が深いほど、

愛のパワー、エネルギーが充電される。

今日のブログのタイトルである、「どーせ私は嫌われ裏切られる」は幻だった?

というのは、幻であり、偽物、錯覚である自分をわざと演じている、ということになる

では、どうやって、「どーせ私は切られ裏切られる私」という幻の思い込みから、

抜け出ることができたのか?

それは、また別の機会にお伝えしたいと思う。

では、では、今日はかなり長文になってしまったけど、また次回。