人間の質問の方程式

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以前に、考えは質問に答えるものを形化したもの、とお伝えした記憶があります。

( したような、しないような。ちょっと忘れましたが。。 )

ということで今日は、「考え」を支配している質問について考えてみましょう。

■人間は考えに支配されているが、その考えをも支配しているものは?

人間は考えによって、活かされ、考えによって殺されもする。

なので、この考えを何とか、かんとか、しないといけないですよね。

考えを何とかする前に、その考えは、質問によって生み出されるので

人間の質問の本質について、語れたらと思います。

質問。

例えば、人間は幸せになるために、さまざまな質問をします。

その質問の本質は、「私の存在を守るためには、どんな行動をしたらいいのだろう?」

という質問になります。

自分の存在が常に、常に脅かされるという強烈な思い込みが人間にあるので、

その生存本能に従順に従うための質問をしているのが人間になります。

もっと単純なことを言えば、「生きる」ために行動していることになります。

生きるため、とは、つまりは、死にたくない、も同時に働くので、

人間は「生死」という生きる、死ぬという因果につかまれている状態で、

永遠に質問し、そして答えを得られないという恐怖、不安に苛まれて生きているんですね。

なので、質問の本質は、死にたくない、生きたい、そのためにはどう行動すればいいの?

という質問になります。

何かをしたとして、「なぜ?」と質問し続ければ「生きるため」「死にたくない」という答えに

必ず行きつきます。

例えば、好きな人とデートしたいと思う。

そんなときに、なぜ?と質問をし続けてみましょう。

なぜ?→結婚したいから

なぜ結婚したいの?→ 子供を産みたいから

なぜ子供が欲しいの? → 子孫を残したいから

なぜ子孫を残したいの? → 自分が生きた証を残したいから

なぜ生きた証を残したいの? → ????

自分が生まれた存在価値を感じたいから

なぜ存在価値を感じたいの?→ 生きる意味価値がないと思いたくないから

生きる意味、価値がないとどうなるの? → ないと、恐怖、不安になる

恐怖、不安になってどうなるの? → 死にたくなる

死にたくないですか? → はい、死にたくないです。

なぜ死にたくないんですか? → 生きたいからです。

と。

必ず、生死という問題にぶち当たります。

もう一例・・・

歯磨きをしている

なぜ歯を磨いているの? →虫歯になりたくないから

なぜ虫歯になりたくないの? → 虫歯になると痛いからいやだ

なぜ虫歯になると痛くなるの? → ?????

痛いから痛いんだよ。。。

なぜ痛くなると思う?→ ・・・・きっと何か不具合があるからじゃ。。

なぜ痛くなると思う? → 虫歯になると歯がなくなり食事が不便だから、そのメッセージ??

なぜ食事が不便になるとダメなの? → 食事が不便になると、ちゃんと食事ができず健康に良くないから

なぜ健康に良くないといけないの?→ 食事食べれなくて不健康になるとダメだから

なぜ不健康だとダメなの? → 不健康だと健康じゃないから嫌だ

なぜ健康じゃないとダメなの? → 健康だと気持ちがいいから

なぜ気持ちよくなりたいの? → 気持ちよくなれば人生が楽しいから

なぜ人生が楽しくなくちゃいけないの? → 楽しくないと生きている意味、価値がないから

なぜ生きている意味、価値がないの? → せっかく生きているんだから、楽しく生きたい

楽しく生きれなかったらどうなるの? → 嫌だ

なぜ嫌なの? → 楽しく生きないと生きている意味がないから

もし楽しく生きれなかったらどうですか? → 楽しく生きれなかったら、死にたい

と。

なぜ?なぜ?なぜ?と質問をし続ければ、必ず、生きる意味価値、生きる、ためには?という

深い質問が出てきます。

この生きる、というイメージにつかまれているのが、人間ですね。

なので、ここで面白い質問をしてみたいんですが、生きること、つまりは、

生きていることが、もし???

思い込みだったら?

生きている主体である、「私」という存在がもし?なかったら?

自分が存在していなく、そして存在していないから、生きていることも存在しない。

そんな状態だったら、どうでしょうか?

私はない、という死。

一番、強烈に、嫌だ!という叫びがある「死にたくない!!!」という無意識の一番深い、声。

その声は、そのバイブレーションは人間である以上、逃れられない定めでしょうか?

生死の問題。

■こんな質問をすると生死の因果から抜けれるって知ってましたか?

生きる、そして死にたくない。

だから、生きるためには、死なないためには、どうしたらいいんだろうか?

という質問が人間の無意識深くに潜んでいる。

だから、人間はチャレンジしたくても出来ない人がいるし、だから、人間は幸せになれない、とも

言える。

じゃぁ、生死という因果、カルマから抜けれたのならば、どうでしょうか?

今までの自分とは決別でき、新しい自分として何かチャレンジできる自分になるのでは

ないでしょうか。

例えば、こんな質問をされてあなたは、どう感じますか?

「もし、あなたが、あと余命1日だったら、今から何をしますか?」

この質問です。

この瞬間に、生死の因果、カルマから少し抜けれるイメージが来ると思います。

これは死を覚悟した瞬間に、生がありありと、脈々と息づき、活動し始めることを意味します。

武士道にもあるように、生きることは死ぬことと見つけたり、という言葉がありますが、

完全に死ぬことで、生きることができるんですね。

けど、この社会、世界では、地球よりも人間1人の命の方が重い、という教育受けています。

だから、昔の戦時中に日本が特攻隊などど自爆することが、頭がおかしい、と思われがちになりますが

命よりも大事なものがあります。

それは死んでもなくならないカルマ、因果から抜けれるための方法を

次の世代に残すことです。

それが、生死につかまれず、生死の恐怖、生死の因果、カルマに捕まれ、自由になれない

人間の解放できる教育です。

なにも、死んでくれ、とか怪しい宗教とかではなくて、生きたまま死ぬ。という教育が

できるコンテンツや、技術、などが必要になるということです。

恐怖、不安は死という生存本能である、ザワザワした感覚です。

その死の恐怖、不安に縛られ、つかまれ生きているのが人間なので、いまだにお金を稼ぐことが

食べていく、という表現をする人がいますが、

食べるために人間は生きているにあらず。

生きて何をするのかといえば、究極的には、生きながら、死ぬことができるという

因果、カルマから抜けるために、生きている、とも言えますね。

矛盾するかもしれませんが、生きるとは、死ぬために。

という因果、相対性、によって成り立っているのです。

なので、この肉体を生存させるために生きるのか?

この肉体を生存させるためじゃなく、生存を超えた死の恐怖を乗り越えられる

教育、イメージを仕組化し、それをメッセージとして発信できるのか?

そんな終着点になりますが、

人間は自分の肉体を守るためにはどうすればいいのか?

という質問から派生して、すべての質問の枝葉があり、その枝葉に

答えという考えをして、そして行動し、人生を送っているのです。

では、今日、最後の質問です。

「自分の肉体とはなぜ、存在しているんですか?」

「自分の肉体とはなぜ、存在しているのか答えるためには、自分の肉体とは何か?を知らないと

答えられないんじゃないですか?」

この2つの質問をして、今日は、ブログを書くのを終了したいと思います。

ありがとうございました。