「みんな違ってみんないい」の勘違い。

「みんな違ってみんないい」の勘違い。

「お互いを認め合う世界にしましょう」

このキーワードよく聞く。

なんとなく聞こえはよく、平和チックで、ことなかれ主義の日本人が好む言葉だ。

そんな「お互いを認め合いましょう」という、それはまるで金子みずずさんの

詩のように、「みんな違って、みんないい。」という言葉にも置き換えられると思う。

この「お互いを認め合いましょう」という言葉に対して、

Noh Jesuはこう語る。

そんなバカなことはやめましょう、と。

どうゆうことだろー?

よくよく話を聞いてみると、お互いを認めることのバーションUPを言っていることが分かった。(決して個性を否定しているわけではなかった。)

さらに、Noh Jesuはこう語った。

「多様性が成り立たせるようにさせている究極のシンプル。

その究極のシンプルを理解できたときに、多様性が分かり、

映画をみて、その映画を解析するように「楽しめる境地」がある」と。

「そんな究極のシンプルとは、人間5感覚が認知できない世界であり、

知っているという知識の世界から完璧な自由になった世界でもあり、

そこから初めて一人一人が違うという本当の個性を活かすことができる」と。

「その究極のシンプルを知らないままで、「お互いを認め合いましょう」「違いを認めよう」という出会いは、

つまらないし、薄っぺらいし、いまいちだ」と。

うむ、なるほどー。

ただ、「みんな違ってみんないい」「お互いを認め合いましょう」という個性を

認めることを否定するんじゃなくて、

バージョンUPさせる愛のイメージがあるから、そこに留まるな!そんな中途半端な人間関係じゃない!と

鼓舞をされたようで、はっとさせられました。