日本人の自己否定文化は「すみません。」の一言で整理できるのを知ってましたか?

日本人の自己否定文化は「すみません。」の一言で整理できるのを知ってましたか?

日本人。

海外の友人から日本人に対してこんなことを言われたことがある。

YUJIN「日本人は、【ごめんね】も【ありがとう】も【そこ通ります】も、

【相手がOK出た時】あらゆる感情をたった一言で表すね、と。

それは「すみません」だ!

お!

確かに・・・。

何かを頼みごとして相手がOK出た時も、「すいません!助かる!」と言うし、混み合ったエレベーターに乗って、自分が降りる階になった時にも「すみません、降ります。」と言うな、と納得した。

これを日本人というものを研究して少しかじり知っている人ならば、

日本人は自分の存在を消して、相手になりきれる素晴らしい文化があるとか、

西洋のように自己主張が強く自分のことばかり考えてなく、相手の立場を考える独特の境界線がない平和な民族の象徴だ、という人もいる。

確かに、確かに、その通りだと思う。

自分もその意見には賛成だ、賛成だけども、大きな大きな落とし穴がある。

その大きな落とし穴には最初は自分でも気づけなかったが、実は、

日本人の「すいません」文化は、美徳と自虐という両方の顔を合わせ持ち

そこの区別がつかなくて日本人が鬱、自殺、自信がない、無気力、という弊害を生み出していることに気づいた。

■なぜ日本人の「すみません。」は美徳じゃないのか?

日本人の「すみません」文化は確かに美徳な部分と言う微妙なラインだけど、それになぜ気づいたかというと、

戦前生きていた方のお話を聞いて感じる世界ですが、

https://note.mu/omotenasi8/n/n9d68f9ac725b

(元特攻要員である山崎さんにインタビューした記事参照

記事をUPして数日で100のスキ、アクションがあった驚異的な記事)

戦後の日本人はとても勇敢で、自分の考えをしっかり持ち、自分のことばかり考えるような今の日本人じゃなかったのに、

なぜ?そんなに簡単に、戦後のGHQの7年間の占領中に、日本人が

考えられなくなり、感情も出せなくなり、日本人の精神はどこへやら?と言わんばかりの弱体化された日本人になってしまったのか?

それが疑問だった。

その疑問が解けたのが、実は、日本人がどんなに素晴らしい民族だったとしても、負ける勝負がある、ということに気づけたこと。

その負ける勝負は、GHQが巧妙に仕組んだ「質問」にある。

■質問で人生は決まる

GHQが戦後の日本人に投げかけた質問の巧妙さに、かなり納得がいった。

人間は質問によって、考えの走る道が作られ、それがその人にとっての哲学、生き方になり、人生そのものになる。

考えというものはどう抗っても質問には勝てない。絶対に。

例えば、GHQの作成の情報操作「眞相箱」の呪縛を解く(櫻井よしこ著)

この本の中に書いてあったことで、ラジオ番組で、

質問、答えという質疑応答のような形で、戦後の日本人に戦争犯罪をしたんだと言う情報をガンガン流していた。

その一節を紹介するが、こんな質問をしている。

P68「我が国が台湾、樺太、挑戦を領有したのは日清、日露両戦役で、いわゆる侵略によってこれを奪い取ったものであるという「解釈について」ご説明下さい。」

この質問はすでに日本が戦略戦争だった、と定義した上での質問になっている。

通常だったら、「日清、日露両両戦役は、侵略戦争だったんですか?」と言う質問だと思うけど。

それは、まずは誰かの意図的な観点は置いておいて客観的に、たくさんのあらゆる観点からの情報をかき集めて、そこで「日本が侵略戦争だったのか?」と議論する必要があるのにも関わらずに。

けれども、それをすっ飛ばして、超主観的に「日本は侵略戦争だった」と定義して、ではその解析をご説明してください。

と、「解析してください」と言う質問にすり替えられている。

その質問に対して、日本が侵略戦争だった、と言うことがつらつらと語られてるラジオ番組になっている。

これは大きな国レベルの話だから分かりづらいと思うので日常的なコミュニケーションに当てはめて考えてみるとよく分かると思う。

例えば、すごく素敵な尊敬できる太郎くんがいるとする。(太郎くんってベターすぎるかな。)

太郎くんに対して、「この人は昔に万引きして捕まったんですが、その万引きした解析をご説明してください。」

・・・と、こんな感じで質問されたらどうですか?

おそらく、こんなことを思う人もいるんじゃないでしょうかね。

「太郎くんって、すごく素敵そうに見えて実際には万引きするぐらいの何かストレスがあったんじゃないかしら。人間って見た目では判断できないものね。あー、怖い、怖い、人は信じちゃいけないわ、本当に。」

みたいな解析をする人もいるんじゃないでしょうかね。

例えば、太郎くんは本当は万引きしてなくて、ただ万引きをした友人をかばうために、

身を犠牲にした。

とするならば・・・。

その背景を知らずに、太郎くんが万引きをして警察に捕まったと部分情報だけ聞きいた人が、

「この人は昔に万引きして捕まったんですが、その万引きした解析をご説明してください。」

と質問されたとしたら、どうでしょうか?

人間って事実情報を確かめもせず、一瞬で、嘘、虚偽、誰かの主観を信じてしまう生き物です。

なので、この文章を読んでいるあなたは、今後、一切、誰かの言ったこと、質問されたこと、それらを

「その人がそう思い込んでいる」と解析してください。

もちろん、このブログで発信しているのも自分の思い込みですので、信じないでください。

ただ、その思い込みの解析は素敵だから、その思い込みに賛同するわ!という

共有共感してくれると嬉しいです。

では、続きを。

日本人は「すいません。」文化があるということを冒頭でお伝えしましたが、

すいませんという謙遜な日本人独特の「素晴らしい感覚」と、

戦後に教育された侵略戦争だったんだ、という自虐的な「すみません。」は

全く違います!

全く違うイメージなんだけど、「すみません。」という言葉が一緒だから、そこが微妙に日本人が

呪縛から抜けられない罠でもあると思うんです。

深い無意識では、人を思い遣る相手の立場になって「すみません。」というイメージはあると思いますが、

今の日本人の表層を作り出している感情、考えである「すみません。」は、戦後に自己否定文化を教育された

自虐的な「すみません。」なんです。

それを発見し、それに気づく、その今の日本人のアイデンティティーである自虐的な「すみません。」というものが作られてしまった。

それが本当の日本人の素晴らしさじゃない、と明確に理解、納得、確信することが大事だと思うんです。

病気も明確な診断がないと、腰が痛いのに、風邪薬を出すような愚かなことになってしまうので、

日本人の明確な病気である自己否定文化である「すみません。」を知る必要があると思います。

それを知らないと自己肯定感に行きません。

そして、それを知ることで、全ての現在の日本人の行動パターンを理解できるんですね。

■日本人はお願いが出来ない

日本人の行動パターンは、申し訳ない、迷惑かけちゃう、と言うのがありますので、

自分ごとなんですけど、人にお願い、頼みごとができなくなってしまう。

人に頼む前に、自分で全てやってしまう。どうしても。

なぜ人に頼めないかと言うと、それが申し訳ない。「すみません。」と言う相手に迷惑をかけちゃうんだ、と言う感情が自分を支配している。

この迷惑をかけちゃうんだ、と言う感情は、戦時中に日本が侵略戦争をしてしまって迷惑をかけちゃったんだ、と言う感情とつながります。

国の歴史と、自分の個の感情を繋がっています。

話は飛んじゃうけど、

南アメリカの人なんかは、時間を楽しむと言うのが文化になっていて、昔、インドに瞑想の修行に行っていた時に、

南アメリカのラテン系の人たちが瞑想中に「きゃっ、きゃっ」と笑い転げながら楽しんでいるのを見て、かなりショックを受けたことがあります。

インドの瞑想プログラムをする場なのに、周りの迷惑を気にせず、そんなに楽しんでいいんだ?と。

そんな風に国ごとにキャラが変わっているのをみて、国の歴史と個の感情、考えは繋がっているな、と感じたのを思い出しました。

話を元に戻しますが、

なぜ?日本人は、申し訳ない、人に迷惑かけちゃう、すみません。と言う自虐的な考えを植え付けられたんでしょうか?

それは、アメリカが日本人の驚異的なチームプレーに対して、恐怖したからだ、と思うんです。

それが、圧倒的なチームプレー。

一億総特攻、と言われるように日本人全員が一丸となって、日本を守るために

戦時中は、意思疎通、一致団結が図られたと聞きました。(いろんな解析があるので、それは置いておいて)

人と人の繋がりが最大の武器であり、最大のパワーであり、究極のエネルギーでもあると思うのです。

1人では何もできないことが、2人ではできる、3人でももっと出来る。

10人、100人、1万人。

100万人ならば、国をも動かせるパワーになる。

強烈ですよね、恐ろしいですよね。

繋がりパワーって。

なので、人と人をつなぐ関係性の絆を断つ必要があった、アメリカは。

だから、関係性を断つために、人と協力できないようにする、つまりは、

お願いすることができないように仕掛けられた。

そのお願いを出来なくさせている背景の感情が人に迷惑をかけちゃう、と言う戦後の自虐史観に繋がります。

人に迷惑をかけちゃうから、私の行動は全て、間違っていた。

と言う自虐史観があるので、人にお願いできずに、自分1人でなんでもやってしまう。

だから、チームプレーが出来ない。

個人主義。

なので、軽くまとめると、戦後の教育で「すみませんでした。」と言う自虐的、自己否定のイメージは、

自分がする行動は間違っているから、もちろんそんな間違ったことを人にもお願いするなんて出来ない。。。。

そんな日本人を大量に生み出してしまった。

だから、1人暮らしの若者でも孤独死と言う問題も生まれています。

申し訳ないから、自分が助けて、と言えずに餓死して死んでいく。

私は食べるものがなくて困っているから、農家で働かせてください、とも言えるのに。。。

申し訳ない、すみません、自分が生きていることが。。

そんな自己否定、申し訳ない、そんな自信のない日本人が大量生産されてしまった。

人にお願いできず、人と協力して何かを行うことも出来ずに、

個人主義の日本人が蔓延してしまった。

■まとめ

日本人の美しいチームプレーをさせなくするために、「すみません。」と言う

自己否定のイメージ教育を戦後にアメリカにさせられてしまった。

なので、その呪縛から解放するために、

迷惑かけちゃダメが正義じゃなくて、迷惑かけてもいいから人にお願いする。

そして、自分の弱点をリカバーしてもらうように、自分の弱点をさらけ出して「お願いできるチームプレー」をする。

それが、戦後に生き残った日本人の自覚するべきことであり、ミッションでもあると思う。

目の前の小さなアクションのように見えるけど、それが大きな世界を変えることに確実につながっていく。

人に迷惑かけちゃうから・・・と言う感情を発見して、そして、それをクリアしていく。

つまりは、人に迷惑かけるのは幻想であって、迷惑どころか、お願いされた相手にとっては、それが人を助けると言う日本人本来の

美しいイメージのスイッチが入る、きっかけにもなる。

だから、人にお願いすることは、日本人の美しいチームプレーのスイッチを入れる行動にもなり、それが全世界で一番必要なニーズにもなっている。

人と人の深い信頼関係が必要になっている。

そんな関係性を全世界に発信していくムーブメントが、リライズ協会になります。

http://rerise-association.jp

(日本からはじまるRe·rise・ムーブメント)

興味ある方は、ぜひ。

では、では、今日は、

日本人の自己否定文化は「すみません。」の一言で整理できるのを知ってましたか?

と言うテーマでお届けしました。

それではまた次回。