効率よくスタイリッシュにが「人間の尊厳の破壊だった。」

効率よくスタイリッシュにが「人間の尊厳の破壊だった。」

自分は人工知能のように効率よく手際よく、

サクサクと仕事をこなす。

これが「かっこいいし」「正しさ」だと思い込んでいた。

効率がいいとは、短い時間で結果が出る。

プロセスを吹っ飛ばして、結果さえ出れば

それで満足。

満足のはずが・・・

満足しなかった。

心の底から満足出来なかった。

その時、ふと思った。

「自分は結果を出して、何を得たいんだ?」

仕事でも作業でも、何かのプロジェクトを実行することでも、買い物、車の運転、などなど。

全てには結果が出る。

その結果を出すために、プロセスをたどるけど、そのプロセスは、どうでもいい。

効率よく、スタイリッシュに、手際よく。

それが自分の中の正しさだった。

だから失敗しちゃいけない。

なので、失敗は許されないから、あらかじめ

「私はバカでドシだから」をアピールして

失敗してもしょうがないね、という言い訳を

作り出す。

失敗は許されない。

失敗すると、怒られ、嫌わらるから。

そんな効率主義、完璧になりたい!という欲望が正確無比な人工知能になりたい!

というニーズにすり替わる。

そんなニーズをずっと抱えながら生きてきた。

けど、ふと立ち止まり気づく。

効率のいい、機械のような正確無比なスピード重視の人間って?

そんな人間ってもしかして、そうやってコントロール、洗脳されてる?

と立ち止まることが出来た。

ずぅと、ずっと自分が理想にしていた機械のような正確無比で人工知能のような人間像が、

「かっこよく、スタイリッシュだ。」と思い込んでいた。

いつのまにか資本主義社会の中で、

効率よく手際よくスタイリッシュに生きることが、絶対のルールであるかのように、

絶対の正しさであるかのように思い込まされてきた。

そんなある一部のこの世界の秩序を維持する

人達にとっての都合のいい人間像に洗脳されていたんだ!

と悔しくなった。

人間の可能性はこんなもんじゃない!

機械、ロボットのように淡々と作業をする。

そんなことのために生まれたわけじゃない!

その資本主義社会の枠の外に出たときに、

見えた仕組み。

効率よく、スタイリッシュなかっこいい生き方が実は人間の尊厳を破壊していたんだ、と

気づけたのでシェア。