自分で人生を決められず相手に合わせて我慢する生き方卒業

自分で人生を決められず相手に合わせて我慢する生き方卒業

自分で自分の人生を決められず

他人の意見に従う。

そんな我慢した生き方をしていました、私も。。

なぜ、そうなってしまったのかを

振り返ってみます。

■人間とは?

あなたは人間ですか?

もし人間ならば、全ての存在である、鉱物、植物、動物などと人間の違いは何ですか?

他の存在との違いは?

人間は、他との違いは「考えること」が出来る存在だと、ここでは定義します。

「考える。」

動物も考えて行動しているよ、という意見が

ありますが、動物は反射、反応しているだけで

考えてないという観点もあります。

それと動物は自我という「私は一体誰?」という

自己がなく「自分を殺す」という概念がないと言われてます。

つまりは動物は、自殺は出来ないけど、

自我の概念がある人間は、自殺できる。

人間は自分で自分の人生を終わらせることが

出来る存在だ、とも言えます。

このように人間の「考え」は苦しみ、悲しみ、悩み

を生み出しますが、

なぜ?そもそも?考えというものが存在するんでしょうか?

■考えとは?

考えは、

これが欲しい、あれがやりたい、こうなったら嫌だな、などなど色々な考えがボコボコ生まれてます。

これらの考えに対して「なぜ?」と問い深掘りを

していくと「生きるため」という答えが出てきます。

例えば「美味しいランチに行きたい」という欲求が

あるとすると、なぜ?を問うと・・・

「お腹すいたから」となる。

さらに、「なぜお腹すくの?」と問うと・・・

「お腹空いて食べないと死んじゃうから」となる。

つまりは、「生きるため」に欲求が存在する、ということになる。

■なぜ生きるのか?

このように考えは、生きるために存在している。

と、まずは一段階定義できるんじゃないでしょうか。

じゃぁ、次の質問ですが、

「何のために人間は生きてるんですか?」

どうですか。

この質問をすると人によっては「楽しむため」と

答える人がいます。

じゃあ、「楽しむため」「楽しみたい」という欲求があるってことは

その背景には「楽しんでない私」というのが確実に存在していますよね。

欲求の背後には、悩みが必ずある。

つまりは、悩み=欲求

ということになる。

例えば、プロ野球選手になりたい、という欲求がある場合は、

私はプロ野球選手じゃない私、というものが存在しています。

このように「こうなりたい!」という欲求の背後には

「そうじゃない私」が確実に存在しています。

楽しみたい、感動したい、快楽を得たい、という願望があるのが人間なので、

必ず、その背後には悩みである

人間は楽しめない、感動できない、不快な気持ち、を持っている存在ということも定義出来ると思います。

なので、本質的には、人間は苦しい、悲しむ、悩みを抱えて生きている存在ということになります。

欲求があるってことは悩みも存在するので。

なので、「人間とは何か?」ということを徹底的に追求している人の共通点は、

人間とは悩む存在なので、その悩みを解決するためにエゴ欲求を拡大する

地球上のガン細胞だ、という

ウィルスのような忌み嫌われる存在だ、と定義している人もいます。

人間とは、争い、紛争、戦争を起こす私利私欲のエゴの塊なんだ、と。

それを見ないように、表面的に「そうじゃないよ」プラス思考で、

「人間とは素晴らしい、無限の可能性だ」と誤魔化している人も多くいます。

人間の定義は、エゴの塊であり、人に優しくする行動も、最終的には自分が「よく思われたい」という自己保身のエゴの塊に、なってしまうのにも関わらずに。

今まで語ったことを受け入れるのも、受け入れないのも自由ですが、

未だに世界では争い、紛争、戦争が起きていることからも、人間はエゴの塊ということを明確に受け入れて、そこをどうするのか?

という根本解決に向かう道を作るために、

人間とはエゴ拡大欲求をし続ける存在だ、ということを一旦受け入れる。

そのことは重要ではないでしょうか?

■私は一体誰?

人間とはエゴの塊だ、ということをお伝えしましたが、

なぜ?人間とはエゴの塊なんでしょうか?

なぜ?人は、争い、紛争し、戦争を起こすような

存在として生まれたんでしょうか?

争い、紛争、戦争はよくないから辞めましょう、とかじゃなくて、

なぜ、人は争い、紛争、戦争をする存在なのか?

その根本原因が分からないで、戦争辞めようと努力しても、根本解決にはなりません。

本気で人類から、争い、紛争、戦争をなくしたいんだったら、

人間がなぜ?争い、紛争し、戦争を起こしてしまうのか?

その根本原因を知ることが重要だと思います。

単なるプラス思考で解決は出来ないですよね。

改めて質問させて貰います?

なぜ、人間はエゴの塊で、争いを起こしてしまう

ような存在なんでしょうか?

■主体とは?

最初の問いに戻ります。

全ての質問の背景には、生きるため、ということに

繋がると最初に言いましたが、

生きるために行動しているんだったら、

「人間とは何のために生きているのか?」という質問をしたくなりますよね。

全ての行動が「生きるため」に集約されるんだったら、

「なぜ生きているのか?」を知りたくなるのは当然です。

ではちょっと、くどいようですが

「人間とは何のために生きているんでしょうか?」

どうですか。

実は・・・

まずは「人間とは何か?」という人間が分からないことには、「何のために生きているのか?」

も分かりようがないんです。

生きることの主体が誰なのか?で、生き方が変わるので当然ですよね。

例えば、ハサミが主体だったら、紙を切るため。

トンカチだったら、釘を打つため。

手だったら、ものを掴むため。

などなど。

このように「何のために?」いう質問の前に、

主体である存在が「何者なのか?」が分からないと、何のために存在し行動しているのかが

分からないのです。

■まとめ

人間は考える生き物であって、

その考えとは、

「人間とは何のために生きているのか?」に答えるために存在している。

けど、その質問に答えるためには、

生きている主体である「私は誰?」という質問に答えれないと無理。

だから、人間であるあなたは、

「人間とは?私とは一体誰?」という質問を

無意識深くにし続けている存在です。

その質問に答えることが出来れば、

「何のために生きているのか?」それも分かり、

日々、毎日、何を選択し、何を行動すればいいのかが明確に分かり、

人に何を言われようと「私はこれをやる!」と決断し、周りに翻弄されず、誰かの意見に従い我慢して生きる人生から

明確に卒業できます。

あたなは、誰で?何のために生まれましたか?

それを知り、他人に従う人生を卒業しましょう。