「正しく知ること」それを考えたことありますか?①
- 2018.10.29
- 神々のメッセージ
■正しく知るとは?
「正しく知ること」を誰も教えてくれないのは何故でしょう?
それを今日は考えたいな、と思います。
例えば、
正しさとは、「人に愛を与えること」と言ってきた場合は、
「愛って何ですか?」と質問してみたとする。
すると、「自分のことだけじゃなくて、人に優しくすること」と。
言ってきたとします。
そして、次に「人に優しくするってどうゆうことですか?」と
質問すると・・・?
「人が喜ぶことをする」と返ってきたとします。
その後に、すかさず「人が喜ぶポイントは、みんなバラバラなのに、
どうやって人を喜ばすことができますか?」
という質問をしたとします。
すると、自分がされて喜ぶことは、自分以外の全ての人間が喜ぶはずだ!という
「部分情報」の考えが浮き彫りになると思います。
自分がされて嬉しいことは、他人も嬉しいはずだ、という
自分が生きてきた経験値、取得した部分情報を
正しさというものを算出する。
それは、自分が喜ぶことは、他人も喜ぶということが
大雑把に一致するだけであって、細かく、明確にイメージを合わせていくと、
自分が喜ぶポイントと、他人が喜ぶポイントはまったく違うんです。
そう「違う」んです。
なので、正しさというのは人によって違うので、
何をどう判断していいのか?
よく分からないのが人間の現在地ではないでしょうか。
■正しさ、間違いないという正しさ
あ、そうそう。
よく正しさも、間違いもないよね、という人がいますが、
「正しさ」は選択、行動になるので、正しさはないけど行動するために
必ず選択するのが人生になります。
なので、
なぜ?そもそも正しさが必要なのかというと、人は選択するからです。
選択する基準に「正しさ」を置いて判断するので、
ある意味正しさとは、自分の判断基準の
物差しという言い方もできますね。
なので、正しい、間違いもないと主張することは、
何も選択しない、という人生を放棄していることになります。
「正しい、間違い」もない、という選択をしている「正しさ」があるなら、それは人生を主体的に生きてますね。
■哲学の巨匠も言っているし
人間は正しさ、間違いはない、という議論に終止符を打つ意味で、
現代の哲学を創り出したと言われているカントを紹介しましょう。
彼も純正理性批判の中で、人間は何を知ることが出来るのか?
人間には正しさはない。
正しいと言える、その基準、そのベースは一体どこから来ているのか?
という問いを投げて、
人間が正しく知ることは出来ないと訴えかけてます。
そうですよね。
人を殺しあう戦国時代や、戦時中に生きていたら、「人に優しくする」という、その判断は「正しくない」→間違っていると判断されます。
今の呑発戦争するという平和な環境から、その固定からみたときに、
戦争中の選択している「正しさ」を語ることは難しいし、ただの否定になってしまいます。
では、ちょっと正しさ、間違い、正しさ、選択、とごっちゃになってきた
と思うので、もうちょっと整理して、次回、正しさについて、まとめて
語りたいと思います。
それでは、また次回
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