この世界はバーチャルならば、リアルな世界は一体なに??

この世界はバーチャルならば、リアルな世界は一体なに??

この現実世界はバーチャルだし。。

自分達の身体は、細胞からできている。

その細胞は、原子からできていて、そして、その原子は素粒子から出来ている。

素粒子物理学では、その素粒子が、そこに存在し留まっている「ある状態の固定されている」のではなく、

「あるね」と思った瞬間に「あれ?ない!」という具合に消えてなくなってしまうという不可解な動きをしてしまう。

そして素粒子が「やっぱここには、何もねぇー。」と思った瞬間に、

急に瞬間テレポーテーションのように、ふっと目の前に現れ

「やっぱ、ここにあるじゃん!」という摩訶不思議な動きをする。

素粒子という存在は、「あるのか?」「ないのか?」・・・・。

「白黒はっきりせいやー!!」とイライラしてしまうかもしれなけど、
「曖昧で、どっちなん?と」突っ込みを入れたくなる動きをしているのが
素粒子。

けど、その素粒子は、自分たちの身体そのものなので、実は、自分という存在も
あったり、なかったり、している。

この瞬間も!

この全世界の人たちも、地球も宇宙も全てが、あったり、なかったりする。

こんな素粒子物理学者たちが、言っていることを受け止められますか?

納得できますか?

自分たちが、いや、自分達だけじゃなく、目の前のパソコン、スマホ、大きなビルの建物、または、空を見上げたら燦然と輝く太陽ですらも。

あったり、なかったり、してしまう。。。

そのことを?

もし、それを受け入れるんだったら、「この世界はバーチャルだ」ということになる。

お釈迦様が言っていた生老病死を解決できる?

じゃぁ、見ている世界は、絶対にあるし存在しているね、リアルな世界だね、という今までの人類がしてきた認識には問題があるんでしょうか?

あるとしたらそれは一体なに?

ダイレクトに、ストレートに、ぶっちゃけ言ってしまうと、今までの当たり前とされてきた人類の認識だと、

お釈迦様が言っていた生老病死という問題が解決できない。

生きる悩み、老いる悲しみ、病気する苦しみ、死に対する絶望という、その問題が。

死に対する恐怖、不安は、死んだら無くなる、つまり永遠に分かれる、離れてしまう苦しみということになる。

それがバーチャルの世界、錯覚であり、今ここにいる自分が偽物であったならば?

夢の中であったならば?

解決できません?

生老病死の苦しみから。

本当の自分じゃないから、

それはまるでブルースウィルスが出演するダイハードのようなドンパチやるアクション映画のスクリーンの登場人物であるゲームの中の主人公であるキャラが
死んでしまっても、

それを見ている本当の自分にはまったく影響がないように・・・

なので、本当の自分を知ることは、偽物、バーチャルの自分とは関係ないというのが分かるので、

お釈迦様が言っていた生老病死の苦からすべて解放されてしまう。

生老病死の苦しみは、結局は夢だった、ってことになる。

人類の歴史はたった1つしかやってない

生老病死をベースにした苦しみ。

人類はこの苦しみを突破するために、本当の自分を知らずに、偽物の自分をそのままにして、

宗教、スピリチュアル、自己啓発、その他のあらゆる、倫理道徳、
様々な「プラス思考」という枠組みで、幸せになろうとしていた。

そうプラス思考。

その方法は、一時的には、ほっとしたり、愛を感じたり、嬉しく、感動し、号泣することもある。

けど、最終的には、私は不幸だ、だから幸せになるんだ、という人類が絶対に抜けることができないと言われている因果、カルマにつかまれる。

その結果、どーせ私は不幸だ、という自分に戻ってしまい、苦しみ、悩み、悲しみ、絶望しています。

元の木阿弥状態。

元に戻っちゃう。

なので、人類は500~700万年間、ずっと「プラス思考信者」に洗脳された信者さんだった、という事実がある。

これを受け止めることはできますか?

カルマ、因果を超えられる道はあるのか?

さっきも素粒子のことで伝えたけど「有ったり」「無かったり」することはバーチャルというニセモノの自分なんだ、と知ることに繋がる。

ニセモノじゃない自分を知っているということは、

その反対である本当の自分を知っていることにもなる。

その本当の自分は、全部繋がっている自分になる。

自ら分ける、その分ける前の自分。

宇宙や、自然、あらゆる人々、それらが全部繋がっているのが、

本当の自分になる。

それを簡単に言葉化して言ってしまうと、「悟り」になる。

悟りにもピン、キリがあるので、神様、空、という概念もあるけど、
それをも作っている私、とアイデンティティーが変わってしまうことが

究極の悟りになる。

その究極の悟りが、究極の自分の実在ということにもなる。

話は脱線しないけど余談になるけど・・・

自分はインドに行ってすべては繋がっているという感覚の悟りを得たが、
日常に使いずらいという弱点を補うために、サムライの間の悟りであるn-Techという認識技術を応用、活用している。

http://www.nr-japan.co.jp/

昨日も仲間たちと話をしていたけど、インドの感覚の悟りを補える、日本、サムライ、間の悟りであるn-Techという道具を使うことで、

悟りを科学化でき、再現可能ということが、どれだけ凄い事か、そのありえない話ができることに凄く感動を覚えた。

1秒でも早く死にたかったのに・・・

自分は昔、いつも死にたい、死にたいと思い、1秒でも早く死ぬことばかり考えて、生きてきたので、今こうして、こんな発信ができることに奇跡を感じている。

その死にたいというマイナス感情を取り除くために、自分は宗教を10年やってきたという背景がある。

なので、宗教と悟りに関係性については明確に語れるし、

なぜ?特に日本人は、自分が理解できない世界と出会うと、すぐに宗教と

決めつけてしまうのかも明確に理解できた。

20年前はヨガのことを「怪しい?」「宗教?」と言われ否定、非難、バッシングされるのが当たり前の時代だったように、

悟りという言葉も今では「怪しい?」「宗教?」と思い込んでしまう人が、

逆に怪しくなってしまう、そんな時代になってしまったな、と感じる今日この頃。

(今、ヨガのことを宗教、怪しい?やらない方がいいよ、という人は、ちょっと怪しい人に見えますよね。^^)

タイミングパワー

自分がこうして究極の悟りに出会ったのは、タイミングもある。

こうしてあなたが今、私の文章を読んでいるのも絶妙なタイミングなので、今、この瞬間に出会わなければ、他の情報に埋もれてしまうかもしれない。

なので、もし、インドの感覚の悟りの限界を感じ、現実に応用、活用できる

サムライ、間の悟りに、

ちょっとでも興味を持ったのなら・・・

それが今この瞬間がタイミングなので出会ってみてください。

お釈迦様が言っていた生老病死の苦しみ、悟りを超えた究極の真実、究極の本当の自分に。

http://www.nr-japan.co.jp/

今日書いた内容について、気になることや、質問したいこと、

なんでもあれば、メッセージください。

それでは、また。