人間は「脳みそ」があるから悟れない
- 2019.03.05
- 悟り(本当の自分)
人間が共通で持っているもの。
のー!!!
脳。
脳は、英語ではブレインじゃなくて「No !!!」になる。
なってしまう。
悟った人の観点から見ると、そーなってしまう。
では、ここで解説してみよう。
脳は、自分と自分以外の他者を分ける。
バッサリと分けてしまうのは、この宇宙、銀河系、太陽系、地球、植物、動物と、繋がりが
ある「癖に!」繋がってない、と認識してしまう、恐ろしくも変態なシロモノ。
本当に全部が繋がっているのに、「私って孤独。。」と思いやすい。
1人じゃないからね♪と優しい声をかけられようものなら、ぐすん、と涙がちょちょぎれるヤツもいる。
もともと、繋がっていて、1人で孤独って思う方が本来なら難しいんだって!
全体をみたときに。
だから、人間の脳の機能は、全体の繋がりを認識できず、私って孤独だわ、と思うように出来ている。
だから、もう最初からスタート時点で「私は全体から切り離された寂しい、孤独な存在だ」と
アイデンティティーが設定されてしまっている。
自分ごとですが。。
自分も、脳の機能にバッチリ掴まれて、
「どーせ自分は裏切られ、嫌われる私だ」という思い込みが本当の自分と強烈に思い込んでいた。
さらにそこから、勝手な思い込みで、
「笑顔」「共有、共感」「一切否定しない」
という三種の神器といわんばかりの嫌われない黄金のルールみたいなものを作りあげてしまった。。。
笑顔で、うん、うん、そうそう、最高だね!
という習慣がついてしまった。
もう反射みたいなもんで、相手が喋りかけてるのに、そーだよね、その通りー!とかフライングしてしまうことも、たたあった。
でも、よくよく考えてみたら、こんなヤツは
信用できないレッテルをばちり、と貼られてしう。
人間はバカじゃないんだね、本当に。
建前のヤツには、こいつ思っていること、言っていること違げーぞぉ。
建前でしゃべっているから、こいつは信用できんな。
なーんて、思われて逆に信用を失ってしまう。
昔の自分は完全感覚YESマン!だったので、
自分が何を本当に考えているのかも、よく分からなくなってた。
けど、けど、これって・・・
本音と本音で出会ってないじゃん。
フラットな関係性って、建前じゃなく、思ったことをバンバン容赦なく言える関係性じゃねぇ?
と疑問を持つようになった。
そこから、なんだ、かんだ、いろいろと
セミナー、交流会、インドの聖者に会いに行ったり、アメリカのインディアンの生活に答えがあるんじゃないか!とアメリカのコロラド州に赴いてみたり。。
その結果。
最終てきに、人間は分離意識があるから、エゴが存在し、自分という自我によって、
自分の身体を守ることしか考えてない動物なんだな、と思うようになった。
なので、この脳みそを、取らないとエゴが消えなくて、分離してないのに、脳がこの世界を分離して私は孤独だ、という認識に勝手に
してしまう!
してまうー!
したくなくても、しちゃう。
だから、脳が見せる世界を超えたイメージが必要だから、
脳の分離機能じゃなく、フラットで、分離からくる違いがない、差が取れた状態の、
「差」「取り」→ 「さとり」が必要になる。
つまりは、人間は脳ミソがあるから、悟れない。
ちゅーことになる。
だから、一旦、カポッと、脳ミソを、取ってしまおう。
いやいや、いや。
どーやって取るの?
取り方あるの?
はい、あります。
脳をカポッと取り外さなくても、そのまま据え置きで、脳をカポッと取り外したような
あれよあれよと、不思議な認識を得ることが
出来ます。
脳の認識を超えた、繋がった、全体を観ることができる
認識の世界を観てみたいですかー?
観たい人ー?
いたら、ぜひ、メッセージ下さい。
個別にお伝えさせて頂きますので、はい。
とゆーことで、昨日は脳みそがあるから悟れない、というテーマでお届けしました。
では、また次回をお楽しみに〜。
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すべてが繋がっているという安息感も脳の認識する世界観に過ぎません。すべてが繋がっていることを認識している個がまだ存在しているから、「個別に」あなたに私が教えるという図式が成り立つ。
方便としての悟りで人と繋がっていたい、もしくはメンターとしての優位に立ちたいというのであれば、その悟りとは「教えられる程度のものでしかない」のです。
Buddhaさん、コメントありがとうございます。
今回書いたブログの内容は、仏教の悟りの9段階禅定で言うなら、まだ個が残っている2段階目の禅定の内容になりますね。
レベル9の悟りのうち、今日はレベル2です、みたいな感じ。
それと、まだ究極の個を超えた悟りをブログの文章、文字化し伝達することが、できない未熟者でございまして。。
ちなみに、Buddhaさんは達観して物事を捉えているように感じますが、
脳の認識じゃない「個を超えた」世界観をお持ちでしょうか?
もしあるのでしたら、ぜひシェアして戴きたいです。
こういったコメントがバンバン来てほしいので、嬉しいです♪
人に教えられたことは悟りではなく、「物語」です。
例えば私は、それを然して多くの言葉を用いずに「指し示す」ことはできますが、指し示したものを理解するプロセスにより、他者にとってのそれは悟りではなく逸話や金言といったものに留まります。
つまりそれは、個の一生という体験において用意されていなければ決して知ることのないものです。
いうなれば、悟りを語ることは「宝くじに当たる方法を教えます」という愚に等しい自意識の勘違いです。
そして、多くの文献や口伝に示される悟りとは、自覚症状ゆえに他者に「悟られることのない」頭痛やめまいを用いた仮病となんら変わりないのです。
Buddhaさん、深い洞察力のあるコメントありがとうございます。
悟りは無境界線であり、人間が使っている言語では
「不立文字」という言葉どおり伝えられない限界があるのは、おっしゃる通りですね。
なので、人間が使っている言語ではなく、人間が今までに使ったことのない独特なイメージ言語というものに開発が成功しているので、
悟りということを伝えられ、発信している背景があります。
ブログの文章書くときに、文字では人には伝わらないのは分かっていて、それを発信している、と一言添えれば良かったですね。
そのプロセスそのものが、「私の半生を体験することによってしか知り得ない」ということです。
言葉とは、「世界の断片」です。語ることで真実を伝えるのは、桜のひとひらを桜を見たことのない人に見せて、桜そのものを正確にイメージさせるような不可能性なのです。
敢えて言及するならば、悟りを妨げる原因は脳機能の問題ではなく、「自分と同じ物の見方を他者にもして欲しい」というアイディアです。
私が伝えたいのは、悟りというものはあるが完全な個人体験であり、他者と自己を結びつけるものではない、ということです。
これ以上のことは何もないため、個別の連絡は不要です。
イメージというものも概念のため、他者に伝われば他者の体験です。
さらに言えば「不立文字」も概念に過ぎないため、新たに概念を作り出せば何かが正確に伝わるという幻想から抜け出せません。
残念ながら悟りとは無境界の知覚ではありません。なぜならそれも、「隔たりはない」という概念に過ぎないからです。
何度も言いますが、悟りとは実体ではなく個人的な体験です。教えることのできる一つ(あるいはいくつかの)方法で他者を常に同じ状態にできるという驕りは「ギャンブルの必勝法」となんら変わりません。「方法がある」という幻想が常に無境界でありたいという苦しみを生むのです。
サイコロの出目を常に1にするには、六面すべてを1にするほかないのだから、あなたは「自分のしているゲームがなんなのか」を思い出して、あるべき賽を振るほかないのです。
そしてこれは、Buddhaという誰かの書いたものではなく、あなたが読んでいるということだけに本質があるのです。