苦しみ、挫折、絶望、悲しみは全ては自分の思い通りに創り出していた?

苦しみ、挫折、絶望、悲しみは全ては自分の思い通りに創り出していた?

「苦しみ、挫折、絶望、悲しみは全ては自分の思い通りに創り出していた?」

と聞いて、何を感じます?

きっと、いろんなスピリチュアルの本を読んだり、自己開発のセミナーなどに
言っている人だったら、

「あ・・あぁ、知っている、知ってる。」

「無意識が意識を作っているから、自分の人生は確かに全て思い通りだよね。。」

と、ちょっと小刻みに、唇をピクピク震わせながら
言う、と思う。

あ・・

という言葉の背景には、きっとこんなことを言っているに違いない。

テレパシーで伝わってくるぜっ、こんな声なき声の、この言葉をぉ!


( 頭で分かっちゃいるけど、人生って実際には思い通りになってないよなぁ )

(けど、知識では知っているけど、何かイライラしたり、嫌だって感情あるぞ、これを無くして、もっと嬉しい感情を得たいけど、思い通りになってないぞ。

どうしたもんか。。。。)

こんな声なき、声を。

蒸し器とはなんぞや?

「むし」する器と書き、直接火で熱しない、

つまりは火を無視して、水蒸気で肉まんをふかふかにしてしまう。

だから、蒸し器と、言う。

というは嘘だけど、

何が言いたいのかというと、無視ではなく、無意識は

「無」だから、本当に、意識できない。

だから、無・意識と言う。

もし、意識できたら、それは意識というし。

肉まんをふかした、ゆげは、うっすらとは見えるが、無意識は
みえないようになっている。

そーゆう仕組みだから。

その仕組みを知らない時の昔の自分は、怒られる、責められるのが嫌だ!という強烈な感情があった。

けど、それは意識化のことであって、

無意識には、怒られる、責められる、ことを好き好んでやってしまっていたのだ!

だぁー!

じゃぁ、なぜ怒らたくない、責められたくないのに、怒られる、責められるというバカなことを、あえてやっちゃうのか?

なぜ?

それは、ドジ、間抜け、抜けている、欠けている、足りない、という状態を
作り出すことで、

母親から、かまってもらいたい、注目集めたい、があった。

それには、自分のアイデンティティーが、

「どーせ、自分なんて かまってもらえない」
「仲間がいないから、仲間が欲しい」

という強烈な寂しさがあった、て、こと。

さかのぼること、数十年・・・

小さい頃、自分は、3人兄弟の真ん中で、お母さんが子育てに忙しく、

自分は、おばあちゃんにおんぶされて育った。

そんな寂しさがあった。

だから、お母さんの注目ひくために、バカなこと、わざと、こけたり、わざと、泣いたり、
わざと、失敗したりして、

お母さんに「クスっ」と手に口を当てて、笑ってもらいたい、
という強烈な感情が出来上がってしまっていたのだ。

のだー。

だから、これらを3つのステップで整理してみると、こーなる。

①自分はどうせ母親にかまってもらえない 自分の味方(仲間)

が誰もいない寂しい存在なんだ、と思い込んでしまった。

②「むし」される恐怖から蒸し器にむされている

肉まんのように、汗をかき、あせる、あせる。

がぶっと肉まんをかじると、肉汁がじとぉー、、と出てくるように、冷や汗が

じとぉー、じとぉ、じとぉ、とあふれ出す。

だって、かまってもらえないと、生命の危機だから!そんな汗かくよね、ふつーは。

注目集め、愛されないと恐怖だから、注目集める、愛されるために

いろんな注目を集めるためのアクションをしてみる。

③あるとき、ドジ、間抜け、ミスをしたときに、クスっと母親が笑ってくれた。

お!しめしめ、これだ、これだよ、注目集める最高の方法は!と自分の生きるすべをみつけて大喜び、歓喜する。

②そして、しっかりドジし、失敗することで、

母親に「大丈夫?」「もうー、しょうがないんだからぁ(笑)」
という愛情をたっぷり貰えることを確認する。

お、やはり、これはいい!のは間違いない、間違いない。しめしめ、ケケッケ、と悪魔のほほ笑みをしたかは分からないけど、

超・スーパー強烈な飴ちゃんイメージを持ってしまう。

だから、愛情を貰いたいから、ドジする、失敗する、それをわざとやる!

わ・ざ・と。

ド・ン・ド・ン

やる。

繰り返し、繰り返し。

もうそれが無意識深くからのクセ、パターン化してしまい。

意識上では、完全に100% すっかり忘れてしまってる。

そのパターンしか、やってない。

そのパターンしか、やってない。

そのパターンしか、できない。

そのパターンしか、出来なかった。

けど、これまた、やっかいなことがあって、

ドジして、失敗すると、「しょうがないんだからーもう。笑」という寛大な心をもった反応をする人だけじゃない。

じゃない。。(涙)

ドジして、失敗すると、「何やってんだ、てめーっ!コラっ!!!殺すぞっ!!」という人だっている。

いと悲し、かな。

だから、そこで自分は、てめーっ!こらぁあぁぁーっ!って怒る、責める、感情出す人は

「感情出してバカじゃないの?自分をコントロールできないアホなヤツ!」と。

そう決めつけた。そして見下す。

なにせ・・・

そう。

バカなことして、ドジなことして、しっかりと失敗して、

クスって笑って、愛情をたくさんバターが塗られているバタークリームパンのように
たっぷり、愛情という感情に塗りたくりたかった、から。

自分の満たされない感情に。

たっぷりと愛情バターを塗りたくられないと、死の恐怖があるからね。

母親から、かまってもらえないという恐怖は、子供の立場になったら分かると思うけど、自分1人では生きていけないでしょぉーに?

(この文章書いていて、本当に、かまってもらいたいちゃんで、気持りぃーな、と思った。。。)

話を元に戻して。

愛情を貰うための行動しか、そこしか、繰り返し、やってない。

そこしか。

これを何と言うのか?

これをカルマという。

このカルマは、死んでも抜けることはできない。

それが、因果、カルマになる。

ん?

じゃぁ、一体、この人間が死んでも抜けることが出来ないカルマを

どうやって、

あなたは、抜けることができたんですか?

という質問がくるのは、当然ですよね、うん。

 

カルマのこと、因果の事を語れるってことは、カルマ、因果を抜けた人しか

できないから。

そう。

カルマを抜けれる、セッションがあったら、カルマ、因果から抜けてしまった。

共有不可能だった悟りの科学化からくる

無意識エンジン発見セッション、というのがあるのは、とても奇跡的。

そのセッションが開発されたので、

カルマから、因果から、抜けて、本当の自由を得ることができるようになってしまうので。

カルマから抜けて、神をも超えて、

神様を掌の上に乗せてしまった男、というタイトルでブログを書けちゃう自分にもなってしまった。

神越え。ゆたちゃん。

素敵でしょ?

いや、素敵じゃない

素敵すぎて

「素敵でしょ?」って簡単な言葉を使いたくないぐらい素敵。

人類が500~700万年、抜けれなかった、そのカルマ。

絶対に、絶対に、不可能とされていたカルマ、因果、から

抜けれる。

って奇跡すぎる。

素敵すぎる、奇跡すぎる。ありえなすごる。

(文字が何かの可愛い恐竜の名前みたいになってしまうぐらい興奮してしまう

ぐらい、凄すぎる。)

すご「すぎる」

だから「無意識発見セッション」はこちらと、URLは貼る、といった

安易に紹介はしないつもり。

本当に受けたい、カルマから脱出したい、因果から抜けたい、って人は
ネットで検索するか、または直接、私にメッセージで連絡くださいー。

と、ゆーことで。

今日は、「苦しみ、挫折、絶望、悲しみは全ては自分の思い通りに創り出していた?」

でお届けしマシタ。

人間はその苦しみ、挫折、絶望、悲しみを自ら作っている。

そして、そこに留まるような仕組みを自分自ら、セッティングした、という
ことすらすっかり忘れてしまっている。

その仕組みがカルマ、因果。

カルマ、因果から抜けたい人、興味のある人は、ご連絡ださいー。

では、また次回に。