人に伝えることが苦手なのは日本人の特徴?
- 2019.02.04
- 日本の使命
人に伝えるときには、いつも声が小さくなり、こもってしまう。
もともと、自分の個人的な癖はどうせ怒られる、という感情が根っこにあり、
さらにその奥には、嫌われる私、というアイデンティティーが存在している。
その私は嫌われる、というアイデンティティーの奥には日本人共通の
私は罪深い人だ、という存在が申し訳ない、というエネルギーが存在している。
どうしても人と人が出会うときに「違い」が出会うことになるので、お互いの違いを
活かしあうんじゃなくて、お互いの違いを殺しあってしまう。
個という存在を存在させた「規定」した瞬間に、それが相手も自分を規定してくる。
アクションがあれば、リアクションがあるように、個人という「あなた」が問題です、という
決めつけをした瞬間に、自分も相手をオートで決めつけられてしまう。
個人という部分を否定するんじゃなくて、日本人の固定、人類の自分と他人を分けてしまう機能で整理し、
全体を否定することで、部分という個人は守られる安心の境地が生まれる。
全体を否定することで、全体を全肯定でき、そこの影響から個人が活かされる。
(これはよく分からないイメージだと思うけど、悟りの境地の話になります。)
そんな社会、世界を作っていきたいな、と思った今日この頃。
どうしてもこの資本主義社会では、「個人」という能力が高いことで
出来る、出来ない、を判断しやすく、それが人間の価値になる。
それと親の教育によって「一人で何でもできるようになりないさい」と教えられているので、
自己否定、他者否定しやすい。
「自分ができることは限られているから、できない部分は他人にお願いしなさい」
という教育だったら、助け合い、チームプレーが出来る社会になると思うけど、
個という存在に対して、できない、不足、満たされてない、という感情を抱かせて、
それを解決するために商品を開発して、それを販売し、お金を循環させる仕組みが
ある。
個人が悪い、個人の問題だ、と思いやすい資本主義社会だけど、それも全部
環境、というものが影響して個人が個人として存在しているので、
個人が問題というコミュニケーションじゃなくて、全体という環境から作られている個人だから、全体をみて個人と関わるイメージが大事と思った。
もともと日本人は全体性を感じるセンスがあったけど、戦後に個人教育を受け付けられてしまって、逆に全体性からくる個人を活かすことが出来なくなってしまった。
その個人という分離から恐怖、不安が生まれ、そこから争い、摩擦、衝突が生まれてくるので本来の日本人を取り戻す必要があることを強烈に感じている。
日本人は感情、考え、を奪われて表現することが出来なくなってしまっている。
そんなことをふっと思ったので、文章化してみた。
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