否定され必要されない自分は生きる意味はあるんでしょうか?

否定され必要されない自分は生きる意味はあるんでしょうか?

■否定され必要されない自分は生きる意味はあるんでしょうか?

両親、友達、会社の同僚、上司、すべての存在から・・・

私は必要とされないし、いてもいなくても、どっちでもいい。。

むしろ「お前、存在しなくていいんじゃねぇ?」という声なき

声まで聞こえてくる。

その結果、周りの人からの声なき声の強烈な「否定」「プレッシャー」「ストレス」によって

自分自身でも、自分の存在を血液が逆流するぐらい全否定したくなる。

「俺何も取り柄ないし、何のために生きてるんだ?」

そんな疑問がふつふつを湧き上がってくる。

だから自分は、自分の存在意義を見出したいために、

自己啓発、宗教、平和活動、スピリチュアル、ありとあらゆる活動をして

生きる意味、価値を見つけ出そうとしてた。

そんな中、いろんな人がアドバイスもいた。

「人間は生まれたのが奇跡だよ。」

「だって、地球が存在するだけでうん百分の1だか、なんだかよく分からないが、奇跡的な確率の数字だよ」とか。

「人間にはそれぞれ役割があって生まれたんだよ、自分では気づかないけどね」とか。

または、「人間は意味価値なんて分からないようになっているんだよ。考えても無駄。人間がその事実をどう解釈、解析するだけだから」と。

はたまた、「人間は苦しんで、もがいて、あがいて、そして、その苦しみを突破し成長し、神の領域になるために、生まれたんだ」

などなど。。

たくさんのことを聴き、学び、そして、自分が行き着いた結果、結論は・・・

「人生って死ぬまでの暇つぶしだ。」
「だって死ぬんだもん。」
「だから、何やってもいい」
「殺人だって、強盗だって、何やってもいい」
「ただし、責任をもって行動しなくてはならない」
「悪いことしたら牢屋に入れられるから」

という、かなり人生に達観してるんだか、それともニヒリズムなんだか、

よく分からない思考パターンになっていたように思う。

■宗教で飯食っていたけど、何か?

自分の人生の意味価値、生きている答えを探して、いろんなことを

やってきたけど、その中で最たるものが宗教だったように思う。

宗教を10年間、必死に、死ぬ気で、全人生をかけて神様のために

生きてきた。

だから、もちろん、お金を稼げないと生きていけない資本主義社会だから、

宗教の職員になって、そこで給料をもらっていた。

つまりは、宗教で飯を食っているというぐらい本気モードで宗教をやっていたことになる。

そんな自分の人生をすべてかけてきた宗教に対して挫折、絶望、失望した瞬間がある。

今でも忘れられないが、ある閃き、大きなショックが稲妻が頭のてっぺんにズバずばずばーっ!と落ちたような衝撃。

それは、人間は神様の教えによって、従う奴隷じゃん!
という気づき。

なんで、自分のやりたいこと、自分がこう思っていること、これがいいじゃないか?という意見、考え、感情。

それらを全て、神様の教えという中心軸によって自分の感情、考えを粉々に粉砕されてしまう。

なぜ?

深い人間の尊厳、人間の生きる意味価値からくる、叫びが込み上げてきた。

なぜ?

人間は神様の教えに従う奴隷なんだ!

おかしい!

人間ってこんなに、こんなに、ちっぽけなのか!

こんなに、こんなに、ちっちゃいのか・・・

こんなに情けなくて、こんなに惨めで、こんなにも無力なのか・・・

と、とめどもなく、激しく涙が、とめどもなく流れた。。

無力で何もできないし、諦めるしかない。

生きる意味、価値を探す旅を。

それから、誰も答えをくれるはずがない所か、宗教を誘った人を恨んだし、

神をも全否定したし、人間で生きることも全否定してしまった。

強烈な人間不信。

その結果、もう人と誰とも会いたくないし、誰とも話したくもなく、

宗教を辞めて実家に帰り、夜中、新聞配達をして昼間は、ずっと寝てた。

人に会うのを避け、人を疑い、人を、神をも、強烈に殺したくなる衝動と

いつも戦っていた。

山にこもって自給自足生活をも取り組んでみたが、気持ちは晴れ晴れせず、

やっぱり、心の奥に、「人間ってこんなもんかな・・」と同時に、

「人間ってこんなもんじゃない。。。はず・・・」

と2つの感情が交差し、着地点のないまま、ふらふらと夢遊病者のように

なっていたように思う。

■生きる意味価値を知る絶対的条件とは?

ずっと心の中にあった疑問。

生きているのに、なぜ生きているのか?それにアドバイスしてくれる人はいたが、自分が納得できる答えは誰も教えてくれない。

楽観的に楽しく生きようぜ。。人生なんて意味価値は自分で決めるもんさ♪とプラス思考的な思考で生きるのか。

それとも人間そんなもんだよ、と何かを諦めてマイナス思考的に生きるのか。

そのプラスとマイナスの因果、抜けれないメビウスの輪のような2者択一した限られた選択肢には、納得、満足いかず、モヤモヤして、毎日、ため息ばかりついていた。

そして情けないことに、逃げの人生で「死ぬのが怖いから」という不安を押し隠したまま、ただ、ただ生きていた。

そんな中、奇跡的な「ある出会い」があった。

新しいスキマ、イメージ、間がみえた瞬間になった。

出会い、出会い、出会い。

人生とはひょんなことで、人と出会い、大きく人生の舵が大反転する。

出会いから、新しいイメージを得ることができたけど、そのイメージはどんなものかというと、

人間とは何か?という質問に答えられるイメージを得ることができた、ということになる。

え?なにそれ?と疑問に思う人もいるかもしれないので、

ちょっと説明してみると・・・

人間とは何か?という質問に答えられたときに、人生をどう生きるのか?がみえてくる。

そして、当然、生きる意味価値も当たり前のようにみえてくる。

なので、生きている意味、価値を知るには、人間を知る必要がある。

では、さらに・・・

人間を知るにはどうすればいいのか?と質問が次々矢継ぎ早に出てくる。

つまりは、存在の背景、生まれる前に質問をし続けることになる。

こんな具合に。


Q:人間を知るには? → A:地球を知る必要がある。

Q:地球を知るには? → A:宇宙を知る必要がある。

Q宇宙を知るには? → A:宇宙が生まれる前を知る必要がある

Q宇宙が生まれる前とは? → A:それは存在の「有」じゃない「無」の世界

Q「無」の世界とは? → A:無とは、神、空、悟り、サムシンググレートなど。

というこんなクエッション、アンサーの繰り返しの質問がなされて、

最終的には悟りが分からないと、

人間が分からず、自分も分からないから、もちろん、自分という存在を

「どう活かして生きていいか」分からなくなる。

ということになる。

自分が分からなければ、自分と言う存在の生きる意味、価値も分かりようがない。

なので、ずっと人間が生きる意味価値が分からず生きてきた人類史は、

人間とは何か?という問いもないし、もちろん答えも分からないから、悩み、苦しみ、討論し、そして最終的には

答えが出ず、諦め、挫折し、考えるのを辞めてしまったんだ、という人間の現在地もみえてきた。

なので人生の生きる意味価値は、「悟る」ということがが絶対的条件になる。

■最終的なファイナルクエッションとは?

人間とは何か?

人間の機能、役割、存在意味価値とは一体?

ある出会い」をきっかけに、

実は人間の可能性はまるで活かしきれてないことを知り、

人間の可能性を本当に爆発させたいと思った。

人間の可能性をまったく活かしきれてない。。

それはまるで寒い日に、100万円の札束を燃やして

「ふぅ、暖かい。紙は燃やすことで活用、応用できるんだね♪」

と言っているようなもんで、

100万円もあれば、ホッカイロを買ったり、超暖かい革ジャンを買ったり、

またはストーブ、エアコンを買う、などなど、様々なバリエーション、可能性がある。

無限の可能性であり、あらゆるバリエーションで生きれるのが
人間の本来の姿になる。

さっきも言ったけど、

そのヒント、答えになるのが、人間とは何か?という質問に明確に答えれること。

さっきの話の繰り返しになるけど、人間を知るには、人間が生きている地球を知る必要がある。

地球を知るには、地球が宇宙空間に存在しているので、宇宙を知る必要がある。

さらに、宇宙を知るには、宇宙がない、そのポジションを知る必要がある。

宇宙がない所。

それが、世間一般で言われている、

「無」「空」「サムシンググレイト」または「神」などなど、というポジションになる。

何度も繰り返して、しつこいな、と思うかもしれないけど、

どストレートに言えば、

存在があるという境界線のあるイメージではなくて、

境界線がない「」が「取れた」「」・「とり」。

悟りのイメージができることで、人間とは何かが分かり、そして自分とは何か?も自然と理解できるようになる。

なので、「無」を知ることで「有」である、人間、そして自分を知ることになるので、

自分がどう生きていいのか分かるようになり、人間は生きる意味価値はあるのか?

という討論、議論、答え探しのファイナルアンサーであるのが「悟り」にたどり着く。

■人間は無意識深くから「悟り」を諦めてる

今までの簡単な結論になるけど、

人間、自分の生きる意味価値を知りたい場合は「悟り」と検索して、その答えを

ぜひ、ぜひ探してみてください。

この世界は相対世界であり、光の存在を認識させるのは、闇であり、光の存在を認識させるのは闇。

それと同じように、人間、自分という存在という「有」の秘密を知るには、

非存在である「無」を知ることになるのは当然であって、

その無のイメージが悟りと直結する。

悟りのイメージを科学化し、それを伝達できるそんな技術があれば、「有」の代表である人間が分かり、自分を知り、そしてどう人生を生きていいのか分かる。

その結果、人間が生きる意味価値が分かるという方程式のようなものが組みあげられる。

でも・・・

残念なことに無意識深くで人間は、悟りを諦めている。

ムリだ、理想論だ、不可能だ、悟りって宗教みたい、悟りは超越したある特別な人しか得られないイメージだ、などなど。

本当に残念だけど、そんなイメージの人はチャンスは訪れない。

かすか、わずかでも、何かあるはずだ・・・と感じ、想い、答えを

探すチャレンジする人が答えを得ることができる。

それが出来る時代でもある。

シンプルで誰もが聞いたことあるフレーズ。

諦めない。

生きることに、意味価値知ることに。

ねばり。

諦めず、ねばり、人生の意味価値、なぜ生きているのか?

と愚直に答えを探し求めている人は、

悟りのイメージを得る方法の1つとして、悟りの科学化に成功した

n-Tech(観術)という技術をお伝えします。

愚直に答えを探している人だけ、まずは自分の目で確かめてください。

 

「観術-かんじゅつ-」とは?

 

この世界は、人間を、自分を知ることをチャレンジし続ける人間の強さである

「諦めない」という名のゲームをしていると思う。

試されている、諦める人と、諦めない人を天秤にかけるように。

人間の、あなたの可能性、こんなもんじゃない・・・・はず。

というかすかな声が聞こえたら、ぜひ、諦めずにチャレンジしてみて欲しい。

悟りに出会う、チャレンジを。

諦めないゲームにチャレンジできるのか?

では、再び、ここで。

さっきも説明したように、1つの選択肢として、悟りの科学化に成功した認識技術というものがあるのでぜひ、あなたの目で、耳で確かめてみてください。

その世界を。

 

 

PS:1

認識技術「観術」とは、悟りをイメージできる技術です。

今、この瞬間に。

 

PS:2

「否定され必要されない自分は生きる意味はあるんでしょうか?」

この質問が全世界中、誰からも出なくなる社会、世界を本気で創っていく
決断、覚悟は自分は出来てます。

興味ある方は、私にご連絡を。