なぜ私は恐怖、不安を創ったのか?

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なぜ私は恐怖、不安を創ったのか?

なぜ?

一体?

恐怖、不安を創ったのか?

なぜ?

人間的な目線で言うと、恐怖、不安という存在は、

存在しなくてもいいのに!

いらない!

恐怖、不安は厄介なシロモノだ!

と、悪者を超えた存在しちゃいけない悪者になっている。

本当に、恐怖、不安がこの世界から絶滅してしまえばいいのに、、、

と自分も思っていた時期があった。

けど・・・

けど、この世界に恐怖、不安が存在しているということは、

何かしら意味があるのでは。

と思うようになった。

恐怖、不安が存在するということは、その対称性である、

何か?も存在する。

その何か?は、一体何か?

その何か?が分かれば、恐怖、不安がなぜ存在しなくてはならないのか?

それがみえてくる。

恐怖、不安の反対に当たる何か?とは、それは、

歓喜、安心、だと思う。

その歓喜、安心したい、という人間の欲求があるのは、

その反対である不満の要素である、恐怖、不安があるからだ。

なのでシンプルに言うと、人間は、恐怖、不安から離れて、

歓喜、安心したい、という存在そものも、という事になる。

全ての人間が、歓喜、安心したい、と願っている。

それが人生でもあると思う。

話を元に戻すと、なぜ、恐怖、不安が存在するのか?

その問いに答えてみよう。

恐怖、不安は、人間的な目線だけど、単なる

圧縮、緊張、という言い方もできる。

例えば、人間が歩くときに、緊張、弛緩、と交互の繰り返しによって、

前に進める。

緊張、弛緩がなく、弛緩だけしかなかったら、大地を蹴る足がなく、

歩けない。

だから、この世界は、緊張と、弛緩で成り立っている、とも言える。

緊張がなくなったら、もちろん、弛緩もない。

この世界が、真空という「ない」状態と、存在が「ある」という2つの均衡によって、

この世界が形成されている。

ならば・・・

恐怖、不安は、なくなるはずがない。

なくなってしまえば、歓喜、安心もなくなり、人間の感情がなくなってしまうことにもなる。

つまりは、人間の感情が存在する。

歓喜、安心、感動、恐怖、不安、など、たくさんある感情が存在しているが、

それらの1つでもなくなってしまえば、どの感情もなくなってしまうことになる。

人間から感情を奪ってしまうとどうなるのか?

次回は、そのことについて語ってみたいと思う。

今回は、恐怖、不安が存在する理由は?

それは、感情が存在しているいじょう、恐怖、不安は存在する。

ということに繋がってしまった。

また、次回で、一緒に恐怖、不安についても語ってみようと思う。

 

では、では、また次回。